かなざわの人物 顕弁
ケンベン 1269-1331 鎌倉時代の三井寺の大僧正。
月輪院と号しました。北条顕時の子、15代執権貞顕の異母兄です。12歳で出家し、鶴岡八幡宮寺9代別当隆弁(四条隆房の子)の弟子となり修行に励みました。三井寺(園城寺・寺門派)別当長吏の位に上り、のち源頼朝の墓所・法華堂別当(在職10年)を経て、元亨2年(1322)10月鶴岡八幡宮寺の社務職となり16代別当を努めました。正中元年(1324)に炎旱(干天)のとき祈雨を修法し、降雨となり御感(賞賛)を得ています。永仁元年(1293)12月三井寺長吏・静誉から伝法灌頂を受けました。三井寺別当の時、泥沼化した戒壇建立問題に巻き込まれました。顕弁は、当時鎌倉幕府の連署であった貞顕の兄であることから三井寺から期待されましたが、延暦寺の反発があり合戦までにおよび僧兵に三井寺を焼き打ちされ、苦労しています。
元徳3年(1331)6月顕弁の四十九日の法要の導師は、称名寺第3代長老湛睿が努めました。絹本著色の「顕弁画像」(国宝付)が、称名寺に伝来しています。
*戒壇問題:最澄派と義真派の教義の対立があり、正暦4年(993)智証門徒(円珍流)が延暦寺を追放され、園城寺を本山とした。園城寺は戒壇院(正式な僧侶になるための施設)の設置を申請したが度々却下され、延暦寺と対立していた。
(井上泰利)