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釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その30 直吉と加々爪民部そして家光>

 直吉(1575-1634)は、慶長7年(1602)同輩と争論を起こして改易となり、寛永11年(1634)12月60歳*67で会津(福島県)にて不遇の死を遂げ、会津の法林寺(今は廃寺)に埋葬されました。前述の浅草寺の墓は […]

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釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その29 徳川家旗本・伊丹氏>

 北条氏滅亡後多くの家臣は帰農しています。すなわち武士を辞めて、かつて領地であった農村や郷里に帰って農事に従いました。一方で諸大名・徳川家旗本として仕えた武士もかなりいます。北条氏遺臣は『寛政重修諸家譜』によれば約140 […]

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釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その28 氏直と直吉>

 北条氏直は、天正18年(1590)7月21日小田原を出立(『家忠日記』)、随行は氏規・氏忠・氏光・氏房・氏隆・直重・直定ら御一家衆、松田直秀・同直憲・大道寺直繁・内藤直行・依田康信ら重臣、山角直繁・山上久忠・富永重吉・ […]

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釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その27 小田原北条氏滅亡>

 天正14年(1586)11月頃「関東・奥羽惣無事令」が徳川家康に伝達されました。羽柴秀吉による「平和令」すなわち秀吉に「臣従すべし」を意味し、違反すれば成敗(処罰)するというものです。関東・奥羽は「静謐」ではなく、戦国 […]

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釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その26 三河守政富と禁制・勝国寺>

 天正17年(1589)9月北条氏直は、浅草寺門前の浅草町に禁制を下し定期市場の安全を保証し、これを政富と直吉に通達しています。  禁 制   浅草町 三月十八日 六月十五日 極月十八日        一 押買狼藉之事  […]

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釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その25 三河守政富と北条幻庵>

 金沢郷は、北条幻庵と称名寺が領主でした。幻庵宗哲は、伊勢宗瑞(北条早雲)の四男で幼少期に箱根権現に入寺しています。大永2年(1522)三井寺上光院(滋賀県大津市)に入り修行し、のち相模に帰り箱根権現別当(天文3年(15 […]

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釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その24 三河守政富と関宿合戦>

『浅草寺志』所収「伊丹系図」の政富の項には、「初京都将軍義輝に仕 兄康信戦死之後家ヲ接(ママ)*56 北条氏政ニ属 天正十一年氏直之命ニ依テ下総国関宿城主 軍功仕候 慶長十五戌年二月廿八日七十三歳卒 武州牧田勝田寺葬 法 […]

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釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その23 続 三河守政富と遠山氏>

 大永4年(1524)北条氏の江戸城攻略後、遠山直景(?-1533)は江戸城城代(二ノ丸)*54・江戸衆寄親(ヨリオヤ)を務めます。直景は北条氏の領国支配の全般にわたり、中心的な役割を担っています。直景の後宿老として嫡男 […]

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釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その22 三河守政富と遠山氏>

 釜利谷の戦国武将の中心的な人物は政富(マサトミ)と言ってよいでしょう。永親の次男で兄康信の死後家督を継ぎ、小田原北条氏の滅亡を直接見た人物です。遠山直景の娘を政富の妻とする文献を度々見ます、時には政富の母とするものもあ […]

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▶鎌倉時代から800年以上も続く富岡八幡宮

富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)は約800年前、1191(建久)2年に源頼朝が摂津の西宮の恵比寿様をお祀りしたのが始まりと言われています。1311(応長元)年の大津波の時に、村の人々を守った事から「波除八幡(なみよけは […]

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