かなざわの人物 冷泉為相
レイゼイタメスケ 1260-1328 鎌倉時代後期の歌人。藤原為家の第三子、冷泉家の祖。正二位中納言。母は阿仏尼(?-1283)。
父為家の死後、異母兄為氏と播磨国(岡山県)細川荘の地頭職の相続をめぐって争い、阿仏尼が鎌倉に下りました。のち為相も下向し藤ケ谷に住んで、将軍・久明親王に仕え、鎌倉武家社会と交わりました。藤谷黄門と称されました。歿地は鎌倉とも京都ともいいます。
阿仏尼も歌人で為家の後妻です。安嘉門院(邦子内親王)に仕え安嘉門院右衛門佐・安嘉門院四条ともいいます。弘安2年(1279)鎌倉に下向、月影谷(極楽寺付近)に住みました。この時『十六夜日記(イザヨイニッキ)』を書きました。武士に歌道を教えています。 称名寺境内に「青葉の楓」と呼ばれる楓があります。
「いかにしてこの一本のしぐれけむ 山に先立つ庭のもみぢ葉」
称名寺にて為相が詠んだとされていますが、確証はありません。楓は冬にも紅葉することがなくなってしまったという伝承に因みます。この伝承をもっとも古くに記した文献は『北国紀行』です。歌人の尭恵が文明17年(1485)3月称名寺の楓を見て、為相の和歌を偲んでいます。また室町時代の佐阿弥が謡曲「六浦」を仕立てたと伝えられています。何度か枯れて植え替えられたものですが、「金沢八木」に数えられています。
(井上泰利)