かなざわの人物 徳川光圀

徳川光圀 トクガワミツクニ 1628-1700 江戸時代前期の大名。水戸徳川家・頼房の三男。

初めは光国。従三位権中納言。梅里と号す。諸国を漫遊した廻国伝説がありますが、家臣を派遣して全国の史料を収集して『大日本史』編纂に着手しました。

延宝2年(1674)鎌倉・金沢を旅行し、紀行文『鎌倉日記』2巻*を残しています。「能見堂ヲ下り 鎌倉ヘ行ニ 瀬戸ノ南ニ金龍院ト云禅寺 道ノ側ニ有」と記しています。

この年5月2日光圀は、上総(千葉県)から船で金沢に渡り、瀬戸明神・称名寺・能見堂を巡り鎌倉に向かいました。まだ物見遊山が広まる前の時代です。鎌倉・金沢を見物したことを契機に、同4年より『鎌倉日記』をもとに、家臣の河井恒久・松村清之・力石忠一を同地に派遣精査を命じて、編纂させたものが『新編鎌倉志』(8巻 1685年刊行)です。能見堂の由来や「天下の絶景」などが書かれています。

水戸徳川家は定府大名で江戸にいました。日光東照宮参詣や鎌倉旅行以外は旅をしていません。理想の殿様像のイメージが「漫遊記」の下地となって、後世講談や物語が書かれました。「黄門」とは中納言のこと、中国での官職名「黄門侍郎(宮廷の門が黄色)」が由来です。江戸時代の落首に「天が下 二つの宝尽き果てぬ 佐渡の金山 水戸の黄門」。    

*記述は吉弘菊譚(正しくはサンズイ)

(井上泰利)

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