かなざわの人物 久世広之

久世広之 クゼヒロユキ 1609-1679 江戸時代前期の大名。下総(千葉県)関宿藩主。5000石の旗本・広宣(ヒロノブ)の三男。兄の所領のうち500石を分与され別家。

大和守・侍従。久世家は老中を何人も輩出し、広之は秀忠・家光・家綱に仕えました。

諸役を経て、慶安元年(1648)1万石となり大名に列しました。寛文2年(1662)、若年寄となり、武蔵国久良岐郡のうちにおいて5000石加増され、翌年老中に就任し計4万石になります。一時高座郡座間村に陣屋を置きました。同9年5万石となり関宿城主となります。この時領地は相模国や久良岐郡等から下総・常陸(茨城県)に移されました。

『新編武蔵風土記稿』巻七十六 金沢領の項に、「能見堂 禅宗曹洞派・江戸千駄ヶ谷瑞円寺ノ末 擲筆山地蔵院ト号ス 本尊地蔵 今ノ堂ハ 寛永ノ頃地頭久世氏江戸芝増上寺子院地蔵堂ト云 廃院ヲ移シテ再興ス」とあります。

『新編鎌倉志』『江戸名所図会』なども同様の記述があります。寛永ではなく広之が領主だった寛文2年~9年に移築されたと思われます。堂は明治2年(1869)出火により全焼してしまいました。

延享2年(1745)銘記の堂の喚鐘は、金沢文庫駅北側二ノ橋踏切近くの建物の上に現存します。広之の兄広当(ヒロマサ)の妻は、寛永5年(1628)江戸城内で富岡の領主・豊島信満(明重)に殺害された老中井上正就(マサナリ)の娘です。

(井上泰利)

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