釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その20 国府台合戦>
足利義明(高基の弟)は、関宿城(高基・晴氏の拠点)の攻略を図っていました。古河公方・足利晴氏は、北条氏綱に義明討伐を依頼しました。天文7年2月義明・里見義堯は太日川(フトイカワ 現・江戸川)東岸の国府台に陣を張り10月 […]
釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史 <その19 右衛門大夫康信>
『北条家所領役帳』には、「釜利谷 伊丹右衛門大夫」とあり諱(イミナ 実名)が書かれていません。『金沢と六浦荘時代』(1914)では「右衛門大夫は即永親のことなるべく果して然りとせば」とあり、『金沢ところどころ』(198 […]
釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その18 北条家所領役帳と家臣団>
『北条家所領役帳』は、北条氏領国全体すべての状況を示したものではありませんが、戦国大名研究で重要な史料です。石高制ではなく貫高制で記されており、総計560人の武士の名があり、825ケ村72168貫文余でした。 小田原 […]
釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その17 伊丹右衛門大夫と北条家所領役帳>
「伊丹右衛門大夫」は、信頼できる史料で最初に登場する伊丹氏の名です。史料名は、『北条家所領役帳』(古くは『北条分限帳』 以前は『小田原衆所領役帳』とも呼ばれた)です。小田原北条氏3代氏康の時代、知行役負担の状況を明確に […]
釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その16 続 菩提寺 禅林寺>
毎年4月17日には、禅林寺にて「東照大権現画像」が一般公開され供養が行われています。この日は徳川家康の命日です。ここ金沢は全国的には有名ではありませんが、家康ゆかりの地でもあります。洲崎の龍華寺には慶長5年(1600) […]
釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その15 菩提寺 禅林寺>
永親が中興開基した竹嵓山禅林寺について述べます。寺伝では鎌倉公方足利持氏(アシカガモチウジ1398-1439)を開基とし、明応2年(1493)能山聚芸(ノウザンシュゲイ 1442-1512)が開山したとしていま […]
釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その14 三河守永親>
左京亮から永親(ナガチカ)の関係がはっきりしません。曽孫でしょうか。父は前三河守(竹岩正賢庵主)と推定します。三河守永親の名は、信頼できる1次史料にはなく、『寛政重修諸家譜』に因幡守永親の名がありますが、これは甲斐徳 […]
釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その13 宇賀山王社と大久保主水忠行>
福松山慈眼寺自性院*38は真言宗御室派です。『新編武蔵風土記稿』坂本村の項には、「古義真言宗 洲崎村の龍華寺末 福松山と号す 本尊阿弥陀は立像 開山開基詳ならず」とあります。現在は聖観世音菩薩です。 また寺に隣接する […]
釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その12 三河守某と自性院>
左京亮が鎌倉公方または伊勢宗瑞(早雲庵)の家来であったとする憶測のような記述をかつて見ましたので、念のため検討してみます。永享の乱で永享11年(1439)2月足利持氏は自害し鎌倉公方は不在となります。持氏の四男万寿王丸 […]
釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その11 伊丹屋敷と夏島>
『新編武蔵風土記稿』(地誌 1828年成立)の坂本村の項に「堀之内 古伊丹氏 居住せし所と云」とあります。「堀之内」は小名(小字)で、現在の釜利谷小学校周辺と考えられ、この地に伊丹氏の館があったと思われます。遺構はありま […]