釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史 <その9 続 謎の浄願寺から龍華寺へ>
なぜ龍華寺の涅槃図が法雲寺に伝わったのか。それは永禄4年(1561)3月~閏3月、上杉謙信*26が北条氏の小田原城を攻めた際、上杉の軍勢が鎌倉近辺で多数の寺社に乱暴狼藉を働き、什宝を略奪して去りました。龍華寺もこの時奪われたようです。筑波山釈迦院を経て、江戸時代初期に法雲寺に辿りつき今に至ります。
明応8年(1499)、融辨の開山による龍華寺は、扇谷上杉氏の武士たちの支援保護のもと菅野資方の開基で建てられました。資方は本尊・弥勒菩薩坐像を造立、太田道灌は不動明王画像を寄進、古尾谷重長は梵鐘を寄進しています。慶長5年(1600)7月には徳川家康が龍華寺を訪れ寺の名を尋ねた折、家康には「リュウゲンジ(立源氏)」と聞こえて機嫌が良く、江戸時代は龍源寺の名も使い分けたそうです。
太田道灌の「山吹の里伝説」は、豊島区面影橋付近・埼玉県越生町など各地にありますが、ここ六浦にもあります。道灌の軍勢が六浦に至り、大旦那として龍華寺造営にも関わったことから、この伝説が生まれたのでしょう。
江戸時代後期の飯田忠彦による歴史書『野史』に、金沢山で狩りをして六浦の里でにわか雨にあったと記しています。場所は権現山・御伊勢山辺りが「山吹の里」でしょうか、無論創作です。称名寺の「西湖(セイコ)梅」を江戸城内の香月亭に移植した話が伝わっていますが、道灌自身が金沢の地に来たという確証はありません。
少女が手折りの「山吹の花」の一枝に託して示した和歌、
「七重八重 花は咲けども 山吹の みのひとつだに なきぞ悲しき」
『後拾遺和歌集』にあり、作者は醍醐天皇の皇子兼明親王です。
*26:長尾景虎は、帰陣の途中鶴岡八幡宮に参詣し、上杉憲政から一字の偏諱をえて上杉政虎と改名、翌永禄5年将軍足利義輝の偏諱をうけ上杉輝虎と改名した。元亀元年(1570)出家して不識庵謙信を称した。