釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史 <その6 伊丹左京亮関東下向>
『浅草寺志』*14の「伊丹氏系図」に、因幡守頼與の三男が左京亮経貞とあり、釜利谷に移り住んだとしています。頼與(頼与)は『寛政重修諸家譜』にある頼興が正しいと思います。次に経貞の諱(実名)に違和感を覚えます。前近代では公家武家は通字系字*15と言って、同じ文字(漢字)を代々使用することが比較的多く一般的です。摂津伊丹氏の場合は、「雅(マサ)・興(オキ)・親(チカ)」を見出すことができます。経貞は違います。
次に左京亮が何時どのような目的で関東に下向したかが問題ですが、一切わかりません。強いて言えば永享10年(1438)の永享の乱が考えられます。歴代鎌倉公方は室町将軍に対抗意識をもち、4代鎌倉公方足利持氏はスキがあれば将軍の座を狙っていました。持氏を補佐する関東管領山内上杉憲実は、度々諫めますが聞くことはありませんでした。やがて持氏と憲実は対立激化。8月持氏は憲実討伐の行動をとります、永享の乱の始まりです。
11月4日劣勢の持氏は金沢・称名寺に入り、翌日剃髪して楊山道継(ヨウザンドウケイ)と号しました*16。7日、現在の金沢八景駅から称名寺周辺で「金沢合戦」*17が起こりました。11日持氏は鎌倉・永安寺に幽閉されました。憲実の再三の助命嘆願は聞き入れられず、翌年2月10日6代室町将軍義教の命令で上杉持朝・千葉胤直に攻められ、永安寺にて持氏は自害しました。
左京亮はこの金沢合戦とは関係ありませんが、それ以前に8月下旬幕府は上杉憲実の応援として、上杉持房・小笠原政康・土岐持益・今川範忠らを関東へ出陣させました。9月上・中旬幕府軍と鎌倉公方軍は、箱根・足柄周辺で衝突しました。この時配下として参陣下向したのではないかと推測します。しかし出陣したのは美濃・駿河の大名らで、畿内周辺の大名の名が見当たりません。左京亮は細川陸奥守*18の執検(執権・家老)だったという記録がありますが、陸奥守が永享の乱に参陣した形跡はありません。よって左京亮従軍もはっきりしません。
*14:文化10年(1813)松平定常『浅草寺志』18巻を編纂。昭和14年17年『浅草寺志』上下巻発行。昭和51年復刻。
*15:嵯峨天皇は唐風を好み、佳字嘉字(雅字)二字四音とし、一字は皇子の兄弟で同じ字をつけた。親王は「正良・秀良・業良」など、臣籍降下して源氏となった皇子は「信マコト・弘ヒロム・常トキワ・明アキラ」など一字名とした。これは公家にも広まって、藤原兼家の子は「道隆・道綱・道兼・道長」など道の字をつけている。源氏平家も同様で平安後期から祖父・父・子が同一文字を受け継ぎ、歴代通字が一般化した。
*16:多くの本は、『鎌倉持氏記』『永享記』などの軍記物(二次史料)に依拠して5日出家・7日合戦としている。しかしより信頼できる『看聞日記』11月21日条に一色直兼が自害し、同29日条に持氏出家と書かれており、出家と合戦の順序が異なっている。実際には持氏の出家は、金沢合戦の後と考えられる。
*17:上杉憲実の家宰(家老)長尾忠政(芳伝)が金沢を攻めて、榎下上杉憲直・一色直兼・浅羽下総守らを自害させた。海老名尾張入道は六浦引越道場(泥牛庵付近か)にて自害した。
*18:『尊卑分脈』によれば、細川陸奥守の家は、管領細川氏(勝元・政元・高国ら)とは大分離れた家系です。左京亮と陸奥守との主従関係は、記録の誤りかもしれません。