釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その27 小田原北条氏滅亡>
天正14年(1586)11月頃「関東・奥羽惣無事令」が徳川家康に伝達されました。羽柴秀吉による「平和令」すなわち秀吉に「臣従すべし」を意味し、違反すれば成敗(処罰)するというものです。関東・奥羽は「静謐」ではなく、戦国動乱と見られていました。「惣無事令」は家康から北条氏政に伝えられました。氏政・氏照・氏邦らはこれを無視し、氏直・氏規らは秀吉に臣従し上洛するべきという立場でした。
こじれていた上野沼田(群馬県沼田市)領有問題は、天正17年4月秀吉の裁定により氏政に三分の二(氏邦が支配担当)、真田昌幸に三分の一で決着がつきました。しかし11月初めに至り氏邦の重臣猪俣邦憲が、沼田城と利根川を挟んで対岸にある真田領を侵攻し、名胡桃城(群馬県みなかみ町)を攻め奪取しました。昌幸はこれを秀吉に通報し、秀吉の怒りを買って北条氏討伐に至りました。軍記物語レベルの話では、これは昌幸の謀略で沼田城の兵が名胡桃城に入城し、その背後には秀吉がいて来春には小田原攻めを準備していたという説もあります。
天正18年3月秀吉出陣、総勢21万とも22万人とも言われる大群が小田原城等を包囲しました。伊丹政富は惣構えを築いた小田原城に入り、4月13日江戸衆の上原氏・河村氏とともに尺木際の警固を命じられています。3月29日山中城(三島市)の松田康長・間宮康俊*64ら討ち死に落城。久良岐郡(横浜市域)は4月に平定され、合戦は終わっています。6月24日韮山城々代氏規が家康の陣に投降。7月5日氏政の子氏直・氏房は滝川雄利の陣所に降伏を申し出て秀吉に伝えられ、翌日榊原康政・脇坂安治・片桐直盛が小田原城受け取りのため入城しました。9日氏政・氏照は城を出て、11日氏政・氏照が城下の医師田村安栖(長伝)の屋敷にて切腹しました。宿老松田憲秀・大道寺政繁も切腹を遂げましたが、詳しいことは伝えられていません。
助命された氏直は、300名余りの家来とともに高野山に向かいました。伊勢宗瑞(早雲)以来五代100年の北条氏は滅亡しました。
秀吉は関東と陸奥・出羽(青森・岩手・宮城・福島そして秋田・山形県)支配を円滑に行うため、家康を関東へ転封させました。
*64:康俊の娘が、山中城三の丸址に宗閑寺を創建し、敵味方の武士の供養塔を建て、康俊の墓がある。康俊の弟綱信(氷取沢間宮氏)の子孫が『新編武蔵風土記稿』の編纂事業に参画した士信(コトノブ)です。