釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その26 三河守政富と禁制・勝国寺>

 天正17年(1589)9月北条氏直は、浅草寺門前の浅草町に禁制を下し定期市場の安全を保証し、これを政富と直吉に通達しています。

 禁 制   浅草町 三月十八日 六月十五日 極月十八日

       一 押買狼藉之事  

       一 喧嘩口論之事

       一 国質郷質之事      以上

       右三カ条  如先御証文可申付 若於違犯之輩者

       可遂披露旨 被仰出候也 如件

       己丑九月廿三日  山角孫十郎(直繁) 奉之

      伊丹源六郎(直吉カ)  同 三河守(政富)

 『浅草寺志』「伊丹系図」では、政富を源六郎と、直吉を勘八と注記しています。『禅林寺五百年史』は、源六郎を政富とし三河守を永親と推測していますが、永親はすでに1558年没しています。政富の子達に源六郎の名はありませんが、政富の仮名が源六郎なので、嫡子直吉が源六郎を名乗った可能性があると考えます。

 この禁制は、伊丹氏が浅草寺から依頼を受けて氏直への取り次ぎを務め、禁制が発給されたものと考えられています。伊丹氏は浅草の町を管理する町奉行のような役割を果たしていたと思われます。浅草周辺は隅田川に近く商業が盛んでした。また禁制にある3月18日、12月18日は多数の人が集まる「観音の縁日」でした。

 政富は慶長15年(1610)2月28日73歳卒(法名 月秀朱空)とあり、数えですから生年は天文7年(1538)となります。南区蒔田町の勝国寺に埋葬されたと記されています。墓碑は伝え聞くところでは不明とのことです。かつて吉良頼康の蒔田城(館)があり、現在その跡は青山学院横浜英和中学高等学校*60で、その南に大きな本堂の龍祥山勝国寺(曹洞宗)があります。世田谷区にも勝国寺があります。家格の高い足利氏一門であった世田谷吉良氏の菩提寺です。江戸時代彦根井伊家の菩提寺となる豪徳寺も吉良氏ゆかりの寺で、ともに吉良政忠創建と伝えられています。吉良氏は小田原北条氏が関東に進出する前から、世田谷と蒔田を所領として支配していました。

 北条氏から吉良氏へ二人の女性が嫁いでいます。頼康(初 頼貞)の妻は、従来北条氏綱の娘崎姫(サキヒメ 高源院)とされてきましたが最近は否定されており、高源院の姉妹である別の女性「大方殿(オオカタドノ)」(氏綱の三女か?実名・法名不明)と推測されています。頼康の養子氏朝*61の妻は幻庵の娘「まいた殿(鶴松院)」です。氏朝の子氏広は、後に家康に仕え蒔田頼久と名乗っています。

 吉良氏の家臣に苅部氏がいます。苅部豊後守が頼康に嫁いだ崎姫?*62とともに、小田原から従ってきたといわれています。家伝では鉢形城(埼玉県寄居町)城代家老苅部豊後守康則の子孫としています。北条氏滅亡後、苅部清兵衛(初代)は、江戸幕府より保土ヶ谷宿本陣・問屋・名主の役を命じられています*63。政富の娘が苅部長兵衛忠義に嫁いでいます。この関係から政富は勝国寺に埋葬されたのではないかと思います。

*60:創立当時はブリテン女学校。その後成美学園・英和女学院を経て現在に至る。

*61:氏朝の父は堀越六郎(治部少輔貞基)、母は氏綱娘高源院。

*62:頼康の妻(大方殿)と氏朝の妻(鶴松院)と氏朝の母(高源院)の三人の女性、それぞれ「崎姫」とされ、渾然一体となって伝わってきており、はっきりしていない。

*63:明治3年本陣は廃止され、その後軽部に改めた。軽部家の墓所は、保土ヶ谷区霞台の大仙寺。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です