釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その21 戦国時代の江戸湾をめぐって> 

 江戸湾は中世を通じて東国流通の大動脈でした。当時は江戸湾とは呼ばれておらず、史料上は「前海」「内海」、江戸時代には「江戸前」「江戸浦」とも表記されています。アメリカ使節ペリー来航時に「EDO BAY」と名づけられました*47が、日本人が江戸湾と呼んだかわかりません。明治3年3月5日(西暦1870年4月5日)「東京湾中第四砲台に灯台を設置」と『太政類典』(ダジョウルイテン 明治政府編集・発行)にあります。これは10年代前半に編纂されたものですから、3年からではなく明治10~14年頃に「東京湾」の呼称が一般的になったと思われます。

 永正9年(1512)8月北条氏は扇谷上杉氏を攻め、鎌倉・久良岐郡を制圧します。この頃伊丹氏は、釜利谷等の地を安堵され北条氏の家臣となったと思われます。文明10年(1478)頃伊丹氏と同じ扇谷上杉氏被官(家臣)であった菅野氏・古尾谷氏が、金沢・六浦に進出しています。しかし菅野氏・古尾谷氏は在地性が低かった、あるいは上杉氏との結びつきが強かったのでしょうか、江戸方面に退去したようです。永正13年(1516)伊勢宗瑞(北条早雲)は三浦氏を滅ぼし、三浦道寸の家臣を三崎城(三浦市)に配置し「三崎十人衆」として仕えさせました。さらに大永4年(1524)1月氏綱は、扇谷上杉朝興の江戸城を攻略後、品川~神奈川~六浦を支配下におきます。北条氏と里見氏の長期に渡る敵対関係が始まり、相互に侵攻が繰り広げられます。先に「江戸時代の大名伊丹氏」の項で、船大将・船奉行を務めたと述べましたが、伊丹氏は特殊技能(水軍技術)を有する移動性が高い武士であったようで、扇谷上杉氏被官だった段階から江戸湾における水運・商業に関与していたと考えられます。

 北条水軍は玉縄北条氏の管轄にあり、三崎城・浦賀城・蒔田城のほか田浦・杉田・根岸・本牧・小安等を根拠地とする水軍を編成していました。金沢の町屋・洲崎も房総への渡岸地点として重要でした。北条為昌の配下山本太郎左衛門尉家次が、水軍総大将を命じられ、神奈川の矢部氏・杉田の間宮氏・釜利谷の伊丹氏を率いて活躍しています。山本氏は伊豆の田子浦を本拠とし、浦賀城在番となり江戸湾防衛を担っていました。永禄12年(1569)金沢の商船3艘が里見方の海賊に奪われましたが、山本左衛門太郎正直(家次の子)が奪い返し、撃退しています*48。

 里見氏方には、内房と外房の海賊衆・安西氏と正木氏がいました。北条氏は、他国の水軍・船手大将を高給優遇して雇い入れ、紀伊半島の梶原吉右衛門尉(のち備前守)・橋本四朗左衛門尉・安宅(アタカ)紀伊守・愛洲兵部少輔・武田又太郎の海賊衆*49が関東へ下向しました。北条氏方は、側面に大砲を備えた大きな安宅船(アタケフネ)を所有していました。一方里見水軍はそれより小さな関船や小早船で、防御力はありませんが速い動きと地形・潮流が分かっていたことが強みでした。

当時の海賊衆は、平時は漁業・海上輸送に従事する商人・職人であり、利害が反するときは成敗権を持って略奪行為や戦闘に及びました。

お互いに対岸を「向地(ムカイチ)」と呼び頻繁な往来がありました。永禄10年(1567)2月上総富津の鋳物師棟梁の野中修理亮は、北条氏規(ウジノリ)から金沢・神奈川において商売が認められています。洲崎(龍華寺門前近くに屋敷)の山口彦右衛門・山口越後守らは、戦国時代の有力な流通商人で、北条氏・里見氏双方から商売上の保証を得ており、野島浦の伊東新左衛門も活躍していました。「半手(ハンテ)」は年貢・公事などを両勢力に折半して納入することを意味し、両属して自衛手段としました。

沿岸地域に暮す民衆にとっても脅威は日常的でした。里見氏方の軍船が三浦半島東海岸に来襲し略奪放火を繰り返しています。大永6年(1526)12月里見実堯は三崎・鎌倉に侵攻し、略奪や寺社を破壊しました。この時鶴岡八幡宮*50も焼失しました。弘治2年(1556)春、永禄4年(1561)2月またも三浦から鎌倉に侵攻しています。永禄10年(1567)8月上総の三船山(君津市・富津市)合戦で北条氏は里見氏に負け、上総大半の勢力を失い、江戸の内海の制海権が後退しました。元亀2年(1571)8月里見氏方の海賊船が金沢浦に侵入しています。9月里見氏は渡海してきた北条軍を破り、下総まで勢力を盛り返しています。

 天正5年(1577)氏政・義弘の双方は和睦し勢力争いが終わりました。これは武田氏・上杉氏の支援が得られない状況となった里見氏は、次第に安房に押し戻され、北条氏に屈する形での和睦でした。天正16年(1588)7月羽柴秀吉による「刀狩り」「海賊停止令」*51が発布されて、海賊は消滅しました。

*47:ペリーは嘉永6年(1853)6月3日浦賀沖に来航。江戸湾の水深測量を実施。その時、猿島をペリーアイランド、夏島をウェブスターアイランド、野島浦をポイントケネディ、小柴崎をポイントフィルモアなどと命名した。

*48:「金澤船三艘海賊に取らる処」「追い落とし取り返すの由に候 殊に敵船と出合う」(『北条氏康感状写』)。

*49:紀伊出身の海賊衆は、太平洋の黒潮ルートで古くから伊豆と熊野間の往来があったと考えられている。 

*50:天文元年~9年(1532-1540)北条氏綱によって復興し、9年11月正殿遷宮。同13年氏康の時完成した。江戸時代には徳川家康・秀忠によって造営が続き、寛永3年(1626)大塔など諸堂・末社が竣工した。文政4年(1821)正月の大火でほとんどを焼失した、同11年本殿(重要文化財)等が再建された。

*51:「海賊禁止令」ともいう。「海賊の輩 これあるにおいて 御成敗を加えられ」とある。里見氏のその後:慶長19年(1614)里見忠義の時、妻の祖父大久保忠隣が失脚し、連座して伯耆国(鳥取県)倉吉に転封、元和3年(1617)領地は没収された。

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