釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その17 伊丹右衛門大夫と北条家所領役帳>
「伊丹右衛門大夫」は、信頼できる史料で最初に登場する伊丹氏の名です。史料名は、『北条家所領役帳』(古くは『北条分限帳』 以前は『小田原衆所領役帳』とも呼ばれた)です。小田原北条氏3代氏康の時代、知行役負担の状況を明確に規定するため、永禄2年(1559)2月12日付で作成されたものです。同年12月23日に氏政が家督を継いでいます。
太田豊後守(泰昌)・関兵部丞(為清)・松田筑前守(康定)が作成の奉行を務め、清書は安藤豊前守(良整リョウセイ)が担当しました。原本は高野山の高室院に伝えられていましたが火災で失われてしまい、それ以前の元禄5年(1692)武蔵国豊島郡王子の金輪寺の宥相が、高室院で書写し持ち帰って所蔵していました。しかしその写本も万延元年(1860)焼失してしまいました。今日伝来する諸写本は、それをさらに書き写したものです。
金沢区域は次のように記載されています。
富 岡 関新次郎 玉縄衆 100貫
釜利谷 伊丹右衛門大夫 江戸衆 255貫462文
同所 壬寅検地増が23貫550文
六浦木曽分 武田殿 江戸衆 127貫
六 浦 六浦社領 85貫958文 (瀬戸神社)
金 沢 称名寺領 77貫
六浦大道 龍源軒 33貫
金沢称名寺分 幻庵御知行 御家中 136貫950文
杉 田 間宮豊前守 玉縄衆 300貫
同所壬寅増分として75貫900文 (間宮康俊)
伊丹右衛門大夫の領地は釜利谷で、負担対象は255貫462文。壬寅(ジンイン天文11年(1542))の検地分が23貫550文を示しています。ほかに常葉(鎌倉市)69貫文余、大宮分藤井共=入西勝之地*44 19貫文余があり合計367貫332文とされています。勝呂郷の領地も、北条氏に従属する前、扇谷上杉氏から与えられていたと考えられます。江戸衆という軍団に所属し、江戸城に詰めていました。六浦木曽分とは、以前に六浦の一部を木曽氏(上杉氏家臣)が知行しており、この頃は北条氏を頼っていた上総国の真里谷(マリヤツ)武田氏の信隆に与えられた領地でした。龍源軒とは建長寺正統庵内の塔頭と推測されています。幻庵御知行とは、伊勢宗瑞(北条早雲)の四男(氏綱の末弟)幻庵宗哲のことで、金沢郷の領主だったと思われる人物です
江戸衆は、遠山氏・富永氏・小幡氏・太田氏・河村氏など74人(あるいは77、81か)が属していました。
*44:入間郡の西部 勝呂郷(埼玉県坂戸市・鶴ヶ島市・毛呂山町周辺)。「大宮」は塚越村内の住吉社のこと、「藤井」は同村の字名。