釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その16 続 菩提寺 禅林寺>
毎年4月17日には、禅林寺にて「東照大権現画像」が一般公開され供養が行われています。この日は徳川家康の命日です。ここ金沢は全国的には有名ではありませんが、家康ゆかりの地でもあります。洲崎の龍華寺には慶長5年(1600)関ヶ原合戦前に訪れており、金沢八景駅近くに、明治初年まで東照宮(旧円通寺境内 現・金沢八景権現山公園内)がありました。また瀬戸神社に東照大権現木像(元・東照宮安置)があります。
安永9年(1780)江戸城内にあった紅葉山東照宮別当所からに坂本村に「御神影」(家康像)が下賜されました。4月付の坂本村と禅林寺宛「申し渡し状」には、(1)「御神影」と祭礼道具を預けるので、敬い慎重に取り扱うこと。(2)毎年4月17日は仕事を休み、神前に参詣すること。他領地(坂本村以外)の者の参拝は禁ずる。(3)非常の場合は「御神影」を他の寺院に移すこと。(4)祭礼が終わったならば道具などは丁寧にしまって処置するよう心得ること。(5)「御神領」内の殺生はみだりにあってはならない。などが記されています。
また村の人々は権威がましいことがないようにと、権威をかざすことをいさめています。江戸時代中ごろから東照大権現信仰が広がります。とくに家康ゆかりの地では、大権現画像を望んだようです。坂本村も同様に要請したと思われます。坂本村にとっては一種の特権となり、村人たちに優越感を持たせたでしょう。周辺の村々からは反感をかったようです。
境外墓として、白山道隧道の近くに畠山重忠の嫡子「伝 六郎重保」のりっぱな五輪塔があります。寺ではかつては3月18日を忌日としていましたが、近年は由比ヶ浜で謀殺された6月22日に供養を営んでいます。
山門をくぐると敷石がまっすぐに本堂へ伸び、初夏には緑鮮やかな小山を背にした本堂左手奥には、歴代住職の墓所があります。右手の座敷に面した庭は簡素ながら清楚で趣があり、佇まいのよいお寺です。
<仮説 禅林寺創建> 『禅林寺五百年史』によれば、禅林寺は下総国関宿・東昌寺の末寺でした。現在関宿は千葉県野田市です、関宿城跡の北西3㎞ほどに東昌寺があり、東昌寺の所在地は茨城県五霞町です。永享11年(1439)創建の東昌寺の開基は、関宿城主簗田満助です。足利成氏は、東昌寺二世・能山聚芸に父持氏の供養を委託しています。満助の娘または養女と思われる女性が成氏の母とされています。簗田氏は古河公方の重臣でした。成氏~簗田満助・持助父子~能山聚芸との関係が見えてきます。
まったく新たに建立するならば、鎌倉が相応しいでしょう。しかし成氏には鎌倉周辺に勢力がありませんでしたので、成氏の意向を受け簗田氏・聚芸がすでにあった釜利谷の小堂宇を建替え、禅林寺の前身の寺を建立したと推論します。また持氏は鎌倉から瀬戸神社参拝の折、白山道を往来し釜利谷の土地に馴染みがあったから、釜利谷の坂本に堂宇を建てたと考えたいものです。