釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その14 三河守永親>

 左京亮から永親(ナガチカ)の関係がはっきりしません。曽孫でしょうか。父は前三河守(竹岩正賢庵主)と推定します。三河守永親の名は、信頼できる1次史料にはなく、『寛政重修諸家譜』に因幡守永親の名がありますが、これは甲斐徳美藩主・康勝の大叔父(あるいは叔父)親永(国扶)の孫で、釜利谷の永親とは別人です。

 『浅草寺志』「伊丹系図」には、「初将軍家に仕う 後釜利谷郷居住 永禄元年閏六月十八日死去 禅林寺葬 禅林寺雲峯宗悦」とあり、子として右衛門大夫康信・三河守政富が書かれています。『禅林寺五百年史』で補足しますと、第二世雲山算悦の代に永親、当地(釜利谷)を永住の地として居を定める。祖先のため堂塔を再建、禅林寺殿雲峯宗悦大居士とあり、禅林寺を中興開基した人物とわかります。永禄元年は1558年です。また旗の紋は藤之丸、幕の紋は左万字、替紋は九字割九曜としています。現代の釜利谷の伊丹氏の家紋は、上り藤に「加」です、これは加藤氏の流れを意味するものでしょう。

 将軍家に仕えたとありますが、室町将軍家の足利義輝(1536-1565)のことでしょうか、小田原北条氏の家臣ゆえに首肯しがたいです。北条氏・伊勢氏の意向でしょうか。すでに鎌倉を離れた古河公方足利氏でしょうか。晴氏あるいはその子義氏に仕えたという意味でしょうか。当時古河公方は小田原北条氏の身内でした。晴氏の室(妻)は氏綱の娘(芳春院殿)、義氏の室は氏康の娘(浄光院殿)でした。晴氏は天文23年(1554)7月に反北条方になったこともあります。左京亮以来釜利谷が本貫地(領地)ゆえに、改めて「後釜利谷郷居住」という文言が気にかかります。系図の信頼性は定かではありません。諱に北条氏綱・氏康の「綱・康」が与えられていないのは、まだ有力家臣ではなかったからでしょうか。子息康信・政富が氏康・氏政の偏諱(ヘンキ)を与えられているのは、永親の活躍が評価されたからかもしれません。氏康の時代に伊丹氏の家格が向上したのでしょう。

 『新編武蔵風土記稿』に坂本村の堀之内(現 釜利谷東6丁目 釜利谷小学校周辺) に伊丹氏館があったと記しています、遺構はありません。小学校前の道をもう少し歩くと禅林寺に着きます。                  

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