かなざわの人物 京極高門
キョウゴクタカカド 1658-1721 江戸時代中期の旗本・国学者・歌人。丹後国(京都府)田辺藩35000石高直の三男。
寛文3年(1663)父の遺領2000石を分与され寄合*となります。墓は晩年過ごした青山(東京都)・海蔵寺です。延宝2年(1674)春、上野不忍池西の池之端に屋敷を建て眺遠軒と名づけました。病弱ゆえに維摩居士を信仰し、その故事に因んで屋敷内に問疾堂(モンシツドウ)を建てました。
元禄5年(1692)改修して毘耶室と改名。門聯(モンレン 柱聯=門などに左右相対して掛けて飾りとする書画の板や軸)は東皐心越が揮毫したものです。鉄眼道光(黄檗宗)に師事し、梅峰竺信(曹洞宗)を支援するなど、両派にわたり当時一流の僧と参禅しました。中国(明末・清初)から来朝した僧たちとも交流し、煎茶文化と関わりがあったようです。江戸堂上派(公卿二条家の歌学の流派)歌壇で、和歌の活動をしていました。
高門の旅は、湯治が目的で事前に、水戸藩編纂の『新編鎌倉志』などから知識をえていました。『走湯行記』(ハシリユコウキ)に鎌倉・金沢の記事があり、金沢には貞享4年(1687)来遊しました。金沢八景を詠んだ和歌が、歌川広重の浮世絵に添えられています。
瀬戸秋月「よるなみの瀬戸の秋風小夜ふけて 千里の沖にすめるつき影」 など。
*寄合(ヨリアイ)=旗本のうち3000石以上ないし布衣(ホウイ 六位の人が着用を許された無紋の服・狩衣)以上の者で無役の者。
*高門の母方の祖父水野忠善の妻、久世広之の兄広当(ヒロマサ)の妻、そして松平信綱(伊豆守)の妻は、老中井上正就(マサナリ)の娘(五姉妹)の内の三人です。
(井上泰利)