かなざわの人物 米倉丹後守

米倉丹後守 ヨネクラタンゴノカミ 江戸時代の大名。甲斐源氏の流れで武田信玄の家来でした。武田氏滅亡後、永時(ナガトキ 1570-1624)は相模国堀山下(神奈川県秦野市)にて200石の徳川家旗本になりました。

孫昌尹(マサタダ1637-1699)の時、主君館林藩主・徳川綱吉が5代将軍となり江戸城に入り、再び旗本になりました。柳沢吉保と同輩でした(吉保の方が年下で、側用人として出世しました)。やがて若年寄・大名となり、のち15000石を賜り、下野(栃木県)皆川に陣屋を構えました。昌尹は江戸勤めの定府大名で、代々丹後守を名乗りました。

享保7年(1722)7月曽孫(養子)忠仰(タダスケ 1706-1735 吉保の六男)は、皆川から武蔵国六浦社家分村に陣屋を移し(京浜急行・金沢八景駅南西付近)、金沢藩が成立しました。

国道16号沿いに泥牛庵という寺がありその西側で、かつては能仁寺があった所です。六浦に移ってからは半年ごと参勤交代しています。藩財政は厳しい状況にあり、幕末に至り12000石の小さな藩でしたが三浦半島周辺の海防に従事しました。初代昌尹から9代目の昌俊(昌後1784-1812)は、諱(実名)や死因に疑問を感じる人物です。明治4年(1871)11代昌言(マサコト 1837-1909)の時六浦県知事となり、同17年子爵となりました。陣屋跡近くの崖下に、幕末から明治に至る米倉家の墓所があります。

(井上泰利)

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