かなざわの人物 良観坊 忍性

リョウカンボウ ニンショウ 1217-1303 鎌倉時代中期の西大寺流律宗の僧。

東国における旧仏教系の代表的な高僧です。大和国磯城郡屏風里(奈良県)に生まれ、西大寺の叡尊に師事し弟子の中で傑出した人物でした。

寛元元年(1243)次いで建長4年(1252)関東に下向し、常陸(茨城県)三村寺(三村山清凉院極楽寺)に入りました。正嘉年中には六浦にあったとされる蔵福寺(源頼朝・文覚創建。後の浄願寺)に止住して、戒律を広めた伝承があります。弘長元年(1261)鎌倉の新清凉寺釈迦堂に、同2年多宝寺に赴きました(のち廃絶)※。

同2年2月末、北条時頼・北条実時の招請に応えて叡尊(当時62歳)は鎌倉に下向し5ケ月ほど滞在しました。叡尊の感化を受けた実時は、称名寺を律院に改めたく住持人選を依頼しましたが、それを忍性に託して大和に帰りました。

文永4年(1267)8月忍性は極楽寺に開山として入り、東国における西大寺流の拠点としました。同年秋友人であった下野薬師寺(栃木県)の審海が鎌倉に訪れた際、忍性は推挙・説得し、審海は渋々称名寺初代長老に就任しました。忍性は、鎌倉において病人や都市下層民に慈善救済活動に努め、道路改修や橋を造るなど土木事業も行った人です。

※弘長2年3月14日三村寺から鎌倉に来て叡尊に会う、以後鎌倉を拠点とする。

(井上泰利)

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