かなざわの人物 足利持氏

アシカガモチウジ 1398-1439 室町時代中期の武将。鎌倉府の四代鎌倉(関東)公方。満兼の子。左馬頭・左兵衛督(サヒョウエノカミ)。

代々幕府と鎌倉公方は緊張状態が続いていました。室町将軍に就くべく野望を持っていた持氏は、正長元年(1428)義持の没後、義教が6代将軍を継ぐと対立は激化しました。

永享10年(1438)持氏が、嫡子義久の元服の際先例を拒否したので、関東管領・上杉憲実は諫言しましたが、持氏はこれを無視しました。8月憲実が領国上野(群馬県)に下ったことをきっかけに、持氏は憲実追討の軍事行動に出ました。永享の乱の始まりです。幕府は憲実勢を支援し持氏方は劣勢となりました。11月4日持氏は称名寺に移り、5日出家して楊山道継(ヨウザンドウケイ)と号しました。7日、憲実の重臣長尾忠政は、持氏方を攻めこれを金沢合戦といいます。持氏は鎌倉・永安寺に移され、憲実は助命嘆願しましたが義教は受け入れず、翌年2月10日上杉持朝・千葉胤直らに攻められ自害しました。以上は軍記物語『鎌倉持氏記』『永享記』に基づく通説ですが、一次史料である『看聞日記』では金沢合戦の後に出家とあり、順序が異なっています。

釜利谷の禅林寺は持氏が開基・創建したと伝えられていますが、明応2年(1493)成氏(シゲウジ)が父持氏の供養のため、能山聚芸(ノウザンシュゲイ)を開山として創建したという寺伝もあります。    

(井上泰利)                    

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