かなざわの人物 北条顕時
ホウジョウアキトキ 1248-1301 鎌倉時代後期の武将。北条実時の嫡子、母は北条 政村の娘。通称越後四郎。初名は時方。越後守。鎌倉幕府の要職である引付衆・評定衆を歴任しました。
宗尊親王(ムネタカシンノウ)の将軍御所に親しく仕えています。
弘安8年(1285)11月妻の実家である安達泰盛・宗景父子と内管領・平頼綱が対立・政変が起こりました。安達氏が滅びこれを霜月騒動といいます。顕時はこの騒動に連坐して、下総(千葉県)埴生荘に配流・隠棲、この時領地を称名寺に寄進しています。のち出家して恵日(エニチ)と号しました。
永仁元年(1293)4月平禅門の乱(9代執権北条貞時による頼綱一族を滅亡させた合戦)後、顕時は鎌倉に復帰し執奏に任命され、翌年10月引付四番頭人に昇進しました。この頃鎌倉の一等地・八幡宮の赤橋に近いところに屋敷(赤橋邸)を持ちます。貞時の信頼は厚かったようです。長年の激務のためか胃腸を患っていました。正安3年3月54歳で亡くなりました。墓所は称名寺金堂左手(西側)にあります。国宝に指定されている肖像画が現存します。外孫足利高義は、尊氏の異母兄です。
(井上泰利)