かなざわの人物 北条実泰
ホウジョウサネヤス 1208-1263 鎌倉時代前期の武将。北条義時の六男。通称は陸奥五郎。初名は実義。四代将軍頼経の近習番、次いで寛喜2年(1230)小侍所
別当に任じられました。小侍所別当は将軍の警護・儀礼に携わる役職の長官です。『桓武平氏系図』に「亀谷殿」とあり、『前田家本北条系図』には「蒲谷殿」と記されています。鎌倉の亀ケ谷(カメガヤツ)および釜利谷に邸があったことが伺えます。確証はありませんが父義時死後兄泰時の配慮で、元仁元年(1224)六浦荘を支配するようになり、釜利谷に邸を構えたと思われます。天福2年(1234)小侍所別当職を子息実時に譲り出家します。『吾妻鏡』に「陸奥五郎病阿により辞す」とあります。27歳でした。
元仁元年「伊賀氏事件」が起こります。将軍に一条実雅、執権に北条政村とする伊賀方(伊賀朝光娘)・兄光宗の陰謀(事実ではない)が露見しました。伊賀方を母とする政村・実泰兄弟は窮地に追い込まれました。
しかし泰時と政村の烏帽子親・三浦義村によって、窮地を脱することができました。なおも不安定な立場に耐え切れず、実泰の人生に精神的な大きな影響を与えたようです。これが早く小侍所別当を辞した理由でしょう。生母については別説があります。藤原定家の『明月記』に「義時朝臣の五郎男(実有卿と実は一腹)誤りて腹を突切り度々絶入す、或いは狂言の自害と聞こゆと云々」とあり、実泰と一条実有は同じ母から生まれたと記されています。
(井上泰利)