釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その30 直吉と加々爪民部そして家光>

 直吉(1575-1634)は、慶長7年(1602)同輩と争論を起こして改易となり、寛永11年(1634)12月60歳*67で会津(福島県)にて不遇の死を遂げ、会津の法林寺(今は廃寺)に埋葬されました。前述の浅草寺の墓は供養塔なのであろう。争論の相手加々爪氏はかつて今川義元の家臣でした。民部とは家康の家臣正尚(マサナオ)が慶長元年(1596)閏7月12日地震にて、伏見城の建物の倒壊で圧死していますので、その子忠澄(1586-1641 民部少輔 9500石 大目付・江戸町奉行)と思います。内容はわかりませんが、直吉28歳・忠澄17歳の口論だったことになります。直吉は会津藩に預けられました。当時の会津藩主は蒲生氏郷の子秀行(60万石)30歳で病死後、忠郷が継ぎましたが25歳で急逝しています。寛永4年(1627)加藤嘉明(40万石)が入封しました*68。直吉は会津にて「領地五百石合力」とあります。改易御預けの身で知行があることが解せません。忠澄には何の御咎めはなかったようです。

 直吉の子に、直隆・芳岩・娘(武藤九左衛門妻)・直之・娘(新見庄左衛門直盛妻)がいます。直隆は通称を勘左衛門・孫左衛門と称した。「慶長14年陸奥生」とありますから、直吉が会津に向かったのちの子となります。妻は大山別当大八坊*69の娘としています。加藤嘉明に仕えのちその子明成のとき2000石を加増されました。寛永16年(1639)5月35歳で死去、金沢(釜利谷)出身の旗本・伊丹氏は断絶に至りました。直吉と同じ法林寺に埋葬されました。芳岩は陸奥国岩城(福島県)の長興寺の僧侶となっています。武藤九左衛門は、浅草寺の侍で別当忠尊の命で島原の乱に出陣し戦死しています。直之ははじめ武藤主殿と称し、のち伊丹三郎左衛門と改めています。実父は九左衛門で母は直吉の娘です。紀州徳川家に仕え、元禄12年(1699)12月病死しています。新見庄左衛門は松平越前守家来と「伊丹系図」にあります。他に智楽院忠運と平蔵(三郎右衛門)を直吉の子とする記載があります。

 奇怪な話が伝わっています。『金沢と六浦荘時代』では、「伊丹家に関する土地の記録に曰く」から次のように記しています。寛永年中(著者の平田恒吉は慶長年中の誤りとしている)「家光公部屋住の時分」伊丹兵庫が三河守と改めて御側頭勤務のころ、宿直の時に徳川家光が急に臥戸(寝所)に来て難題を相談した。三河守は「心配御無用」といって家光を安心させたあと、「老中側衆宿元」へ宛てて三通の書を残して自害した。長男は藤堂和泉守へ、次男は太田備中守へ、三男(のちの忠尊)は浅草寺に預けられた、領地は没収された。そして父秀忠没後許され召還の話があったが、長男次男は預け先に留まりたいと言って辞退した。子息の名を次のよう列記しています。

惣領 伊丹勘左衛門 知行400石 藤堂和泉守家来 玄関番頭

二男 伊丹平蔵   知行100石 太田備中守家来 玄関番頭

三男 浅草寺住持  智楽院僧正

四男 伊丹兵庫頭  当時御留居

『浅草寺志』注記(別紙付書)に、伊丹三河守(禅林寺殿)の子として下記の名をあげていますが、錯誤を感じます。

   第一子 伊丹平蔵 太田摂津守殿家中 100石

   第二子 浅草寺智楽院

   第三子 伊丹勘左衛門 藤堂和泉守殿家中 300石

   第四子 伊丹兵庫頭殿 知行4000石

 別の文献*70では、伊丹権六が家光の身代わりとなったという。元和年間(1615-1624)家光(1604-1651)が若いころ母お江(ゴウ)の方の侍女古伍(コゴ)の局に恋慕して、夜ごと般若の面を被り女の長局(ナガツボネ)へ忍び込んでいた。ある夜その姿を見られ妖怪が現れたと大奥で評判になった。御台所(お江の方)は「この世に妖怪などいるはずはない、女の元の通う男に違いない」と答えた。

家光は古伍に会うことは止めたが、すでに妊娠しており勘気を受けることを恐れ、小姓の権六に話した。身代わりとなった権六は般若の面を被り古伍のところに忍び込み、結果張り込んでいた番士(伊賀者)に捕らえられてしまった。これが秀忠の知るところとなり、権六と古伍は死罪となった。二人とも家光の名は出さなかったという。

また『禅林寺五百年史』では、『東京都社寺備考』の浅草寺の項*71を引用しています。秀忠治世に夜中に泊まり番の伊丹三河守の許に竹千代(家光)が見え、失態したことを告げた。三河守はその罪を引き受けその場で切腹して果てた。三河守の遺骸は智楽院忠尊が引き取り、当山(禅林寺)に葬られた。三河守の子息4人は各家に預けられた。

寛永19年(1632)1月24日秀忠死去、その後家光は直吉の遺児を呼び出したが、長男は藤堂家に次男は太田家に召し抱えられているため、家督相続を辞退した。そこで御預けとなっていた末子に、三河守の領地相続を仰せ付けたと記しているとしています。

 『禅林寺五百年史』は、慶長7年の加々爪氏争論と家光失態事件と関係づけ寛永7年の出来事と考え、会津藩(蒲生家でなく加藤家)御預けになった直吉が、500石の領地を与えられたのは、身代わりの代償と推測しています。

 これらの話しは直接目に触れたわけではありませんが、『明良洪範 巻一』に収録されたものの一つでこれが原典のようです。この書は『徳川実紀』に度々引用されていますが、「家光と伊丹権六」の話しは『徳川実紀(大猷院殿御実紀)』には記載されていません。

 随筆家であり考証家であった三田村鳶魚(ミタムラエンギョ1870-1952)の『公方様の話』によると史実ではなく伝説に過ぎないと述べています。もし権六が源六郎直吉のことならば、40代となっており小姓であったとは考えにくい。家光は若いころ男色で女性には関心がなかったという。将軍世子(後継者)は西の丸に住み本丸大奥には行けません。世子・小姓でも男は大奥長局には入れません。この話しはフィクションでしょう、なぜ伊丹氏なのか不思議です。改易の大名旗本ならば虚構の話しとしても支障がないと考えたのでしょうか。

*67:『浅草寺志』は61歳とするが、天正3年(1575)生まれなので享年は60歳。

*68:蒲生家は、忠郷の後弟忠知が参勤交代の帰路京都で客死、あるいは江戸屋敷で疱瘡がもとで没したともいわれている。家中不安定な中30歳で死去、代々夭折し無嗣断絶。加藤家は、二代目の明成が愚行暗愚の人で、寛永20年(1643)40万石を失っている。加々爪家は、忠澄の子大名(遠江掛塚13000石)直澄の養子直清のとき、旗本成瀬正章との境界争いで裁判となり、提出書類の不備で改易となっている。

*69:「伊丹系図」は大八坊だが、正しくは相州大山寺の八大坊(遠山綱景の子左馬允の子)。

*70:『日本奇談逸話伝説大事典』「徳川家光」の項(1994 勉誠社)。別冊歴史読本『将軍の城 江戸城のすべて』(1997 新人物往来社)。『明良洪範』(メイリョウコウハン):江戸中期成立の逸話・見聞集。江戸千駄ヶ谷の聖輪寺の住持・増誉(?-1707)の著。25巻別編15巻。徳川氏と関連のある武将・家臣の事績・言行を中心に武士の心構えとなる話しを収録。

*71:浅草寺手代・中野太右衛門が書き記した「荒痛文殊(アライタモンジュ)由来書」の記載。

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