釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その29 徳川家旗本・伊丹氏>

 北条氏滅亡後多くの家臣は帰農しています。すなわち武士を辞めて、かつて領地であった農村や郷里に帰って農事に従いました。一方で諸大名・徳川家旗本として仕えた武士もかなりいます。北条氏遺臣は『寛政重修諸家譜』によれば約140名の旗本が確認されています。徳川家旗本になった旧臣は、間宮氏・松田氏・笠原氏・岡野氏・山角氏・富永氏・石巻氏等が数えられます。遠山直景の子直勝・景吉兄弟は母親が徳川義直の乳母であったことから、尾張徳川家の家臣となっています。遠山康英(新次郎直吉の父)は中村一氏の家臣となりのち尾張徳川家に出仕しています。

  伊丹政富およびその子らは、徳川家旗本等になっています。これは縁戚であるお勝の方のちの英勝院の力と思います。お勝の方は徳川家康の側室でした。父は太田康資、母は遠山綱景の娘(北条氏康の養女)法性院で、兄に資綱(のち重正・重政)がいます。法性院と政富の妻は姉妹で、ゆえに直吉(1575-1634)とお勝の方(1578-1642)とは従兄妹の関係でした。

 お勝の方の初名はお初のちお梶、13歳で家康の側室となり、合戦に同行するといつも勝利したとのことで、家康によってお勝と改めたといわれています。慶長12年五女市姫を出産しましたが4歳で早世し、その後鶴千代(後の水戸徳川家の頼房)の養育を任され、江戸幕府の中で高い権勢を得た女性です。元和2年(1616)家康没後英勝院と改めました。寛永11年(1634)鎌倉の太田道灌旧跡に、浄土宗の英勝寺を建立しています。

 『浅草寺志』「伊丹系図」によって、政富の子を述べます。光昌は満寿丸・佐次右衛門。北条家小田原落去後、慶長20年(1615)大坂の陣の節、御当家奉仕。その後故あって断絶。不詳とあります。政親は猿寿丸・仁兵衛のち宗仁。北条落去後肥前国に居住。太田備中守家来になったとあります。太田重正の次男に備中守資宗がいますが、肥前国(佐賀県)の領主にはなっていません。寛永12年(1635)下野山川15000石の大名となり、その後三河西尾35000石・遠江浜松35000石に転封しています。政親は家康家臣となり御書院番組に入ったともあります。肥前居住とは、島原の乱に参陣したことを意味するのかもしれません。光昌・政親そして前述の直吉の母を遠山直景の娘としていますが、これは綱景の娘です。

 勘八直吉については、御当家へ召し出でされた(徳川家旗本になった)後、次のような記述があります。加々爪民部と争論の儀に付き、慶長7年蒲生秀行へ御預けられ奥州会津に所在したと。さらに生涯無役500石を得て、寛永11年12月61歳で死去。会津の法林寺に埋葬されたとあります。直吉の下に知楽院権僧正忠尊(チュウソン)・勘七郎(喜左衛門)・娘二人がいました。忠尊については後述します。勘七郎は日向国(宮崎県)にて病死とあります。

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