釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その28 氏直と直吉>
北条氏直は、天正18年(1590)7月21日小田原を出立(『家忠日記』)、随行は氏規・氏忠・氏光・氏房・氏隆・直重・直定ら御一家衆、松田直秀・同直憲・大道寺直繁・内藤直行・依田康信ら重臣、山角直繁・山上久忠・富永重吉・諏訪部定吉らの側近など30人、そして従卒合わせて300人ほどが高野山(奈良県)に向かいました(『北条五代記』)。8月10日奈良に着き12日高野山に入り高室院(タカムロイン)を宿舎としました。この時『所領役帳』を持参し、以後高室院の什物となりましたが文化9年(1812)6月13日焼失しました。
11月10日山上の寒さが厳しいということから、秀吉の配慮によって山麓の天野(河内長野市)に移りました。翌19年2月氏直は、赦免され1万石を与えられました。8月19日大坂城に出仕、27日には妻督姫(家康の娘)が大坂に着きましたが、10月下旬疱瘡を患い快復することなく11月14日死去しました30歳でした。男子がいなかったため氏規の子氏盛の相続が認められ、のち河内狭山(大阪狭山市)11000石の大名として幕末まで存続します。氏直が早世しなければ中国地方の伯耆国(鳥取県西半部)一ケ国の大名となったと伝えられています。督姫は文禄3年(1594)12月姫路52万石の池田輝政に再嫁しています。
政富には光昌・政親・直吉・忠尊(チュウソン)・勘七郎の男子と娘二人(尾張家家臣・遠山六左衛門妻、苅部長兵衛妻)があったと「伊丹系図」にあります。同系図によると、三男直吉(ナオヨシ)の通称は勘八、天正3年(1575)釜利谷の生まれ、氏直に仕えたとあります。さらに同18年氏直に従って高野山に至る、駿河に来て土井利勝・松平正久を頼り徳川家に召し出でされると記されています。
『禅林寺五百年史』によると、勘八直吉は遠山氏の男子が浅草寺の忠豪を除きすべて戦死したため、遠山家養子となり遠山新次郎直吉と称したとあります。しかし遠山綱景-政景-直景と続き、直景の子犬千世・婿千世は尾張徳川家の家臣となっています。また康光(綱景の義弟か)の孫に新次郎直吉がいます。この直吉の子新次郎景綱も200石の徳川家旗本になっていますので、遠山家に跡継ぎがいなかったとは思えません。『浅草寺志 上巻(巻八)』墓所図に宝塔の伊丹勘八直吉墓*65が記載されています。「了照殿月傁道迫信士*66 寛永十一甲戌天十二月廿八日」とあります。伊丹勘八直吉の遠山家相続はなかったと思います。
『神奈川県史通史編2』に遠山新次郎直吉について次のような記述があります。天正18年(1590)7月中旬徳川家は遠山氏等の北条氏旧臣に接しており、大住郡白根郷(伊勢原市)を知行していた新次郎直吉に対して、氏直の高野山行きに従ったのち帰国するまでの間、家康は白根郷に居住する直吉の妻子の安全を保障しています。これは家康の家臣本多正純が新次郎の申し出でを取り次いだものです。翌19年徳川家に仕えています。『禅林寺五百年史』の記述は、遠山新次郎と伊丹勘八を混同したと思います。
北条氏家中で諱(実名)が同じ者がいることを、当初いぶかしく思いましたが、他に大藤直吉や遠山綱景・平山綱景、北条直重・平山直重、遠山康英・清水康英などが存在しています。当時は官職名や通称を使っているため支障はなかったのでしょう。
伊丹勘八直吉は、高野山から戻ったのち家康に仕えて小姓となったようです。
*65:現在、浅草寺に墓は存在していないようです。
*66:傁。正しくは、人偏なしのソウです。「伊丹系図」では「月傁行廻」。行の真ん中に首が入るドウまたはトウです。