釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その25 三河守政富と北条幻庵>
金沢郷は、北条幻庵と称名寺が領主でした。幻庵宗哲は、伊勢宗瑞(北条早雲)の四男で幼少期に箱根権現に入寺しています。大永2年(1522)三井寺上光院(滋賀県大津市)に入り修行し、のち相模に帰り箱根権現別当(天文3年(1534)頃~9年頃)に就任しています。長綱(チョウコウ)と名乗っています、これは古義真言宗の法名です。その後幻庵宗哲(ゲンアン ソウテツ)と名乗りますが、これは父宗瑞と同じ臨済宗大徳寺派の法名です。宗哲の名は天文5年(1536)から、幻庵は同14年からの使用が確認されています。
通説では、明応2年(1493)に生まれ、天正17年(1589)11月に97歳で死去とされています。実際には永正年間(1504~1521)前半の生まれと思われます。また史料上は天正11年(1583)以降その名が見られませんので、享年は70代半ばと考えられます。
小田原城の北方、南足柄市に近かい久野に居住したので「久野殿」と呼ばれていました。令和5年久野下馬下遺跡(クノゲバシタイセキ)から古墳時代中期(5世紀後半)の「子持勾玉(コモチマガタマ)」2点が出土されニュースとなりました。古代の装身具の一つで、勾玉の背や腹に小さな勾玉がついています。
幻庵宗哲は還俗せず、武将のように政治的な行動をとった人物です。最高の知行高5457貫文を有し、武蔵国小机領(横浜市)支配を管轄し、吉良氏朝*59を後見しています。連歌師の宗長や歌人の冷泉為和・高井堯慶など、京都の公家や文化人との交流があり、和歌・連歌・諸芸など深い教養を身に着け、長く北条家御一家衆の長老として、歴代の当主を助けた知識人・文化人でした。
天正2年(1574)2月付で釜利谷に関する史料(幸田大蔵丞(定治)から徳寿軒宛)があります。まず永明庵(伊豆国山木にある香山寺塔頭)の田畑を笠原氏が押領した件を、徳寿軒が北条氏に取り次いだことが記されています。次に政富と徳寿軒の間で釜利谷村をめぐり相論が起こり、幻庵が関宿の陣(合戦)から帰ってから尋問糾明を行なうということを記しています。その内容はわかりませんが、政富が幻庵と関係があったことがうかがわれます。『新編武蔵風土記稿』坂本村の項に小名(字名)として「徳寿軒」があります。かつては寺院があり僧侶がいたことが推測できます。
*59:吉良頼康の養子。妻は幻庵の娘。