釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その24 三河守政富と関宿合戦>

『浅草寺志』所収「伊丹系図」の政富の項には、「初京都将軍義輝に仕 兄康信戦死之後家ヲ接(ママ)*56 北条氏政ニ属 天正十一年氏直之命ニ依テ下総国関宿城主 軍功仕候 慶長十五戌年二月廿八日七十三歳卒 武州牧田勝田寺葬 法名月秀朱空」とあります。

 まず埋葬地は、正しくは蒔田の勝国寺です。足利義輝(1536-1565)に仕えたとありますが、真実でしょうか。当時義輝は京都に落ち着くことができず、将軍在職(1546-1565)中、常に在京できたのは6年ほどです。天文21年(1552)1月義輝は三好長慶(ミヨシナガヨシ)と和睦し、近江国(滋賀県)湖西(琵琶湖の西)の朽木から京都に戻りますが、前年には重臣伊勢貞孝が義輝を見限り離反、長慶方になっており大打撃でした。天文22年に和睦を拒否し、細川晴元と再度連携しますが、長慶に敗れ再び朽木へ逃れ幕府機能は崩壊した状態でした。足利将軍家は、朝廷に対して奉仕する義務も果たせず、義澄流と義稙流に分裂し弱体化していました。そのような状況で義輝に仕えたことに疑念を持ちます。

永禄元年(1558)11月和議が成立、12月京都へ戻りますが、同7年7月長慶が病没すると、三好氏内部で重臣同士の抗争が起こります。同8年(1565)5月義輝は、三好義継・三好長逸(ナガヤス)・松永久通(久秀の子)らの兵に御所を包囲され討たれました。

北条氏綱・氏康は、足利晴氏・義氏親子を古河公方(関東の将軍)家の家督に就けています。上杉謙信は義氏の異母兄・藤氏を、武田信玄や里見義堯は義氏の異母弟・藤政を擁立して、北条氏に対抗する状況でした。政富が古河公方に仕えた事ならば理解できます。

関宿城主とありますが、大石氏(滝山城主)・成田氏(忍城主)・上田氏(武蔵松山城主)ら北関東の国衆は、城主となっています、しかし相模・武蔵の多くの領国内の支城は北条氏一族が城主となっており、城主不在の場合は城代がおかれていました。関宿合戦について少し述べておきます。

関宿は、現在の千葉・埼玉・茨城の県境狭間にあり、旧利根川水系と古鬼怒川(常陸川)水系の接点に位置し、水陸交通の要衝でした。氏康は「一国を取りなされ候にも替わるべからず候」(一国を取ることに匹敵。「喜連川文書・氏康書状」)と述べ、北条氏にとって北関東経略に重要な地でした。

水海(ミズミ)の簗田氏が関宿に進出して城主になったのは、康正元年(1455)簗田持助(河内守)のときです。北条氏は三度にわたって関宿城を攻めています。第一次関宿合戦は、永禄8年(1565)3月氏康・太田氏資は簗田晴助を攻めましたが、これは失敗しています。第二次は同11年6月関宿城を包囲しますが、翌12年春上杉謙信からの要請もあり攻略は中止され、簗田氏は辛くも死守しました。

第三次は天正2年(1574)5月氏政は攻撃を開始、閏12月上杉謙信・佐竹氏の救援を得られず、晴助・持助(中務大輔)父子は開城(降伏)しました。簗田氏は水海城に後退し北条氏に従属*57しました。この合戦に北条幻庵・伊丹政富が参陣したと思われます。関宿城は、当主の直接管轄下におかれ、北条氏の重臣が在番として派遣されました。大道寺政繁・北条氏繁・北条氏秀らが相次いで城将を務めました。同10年7月氏秀は病気療養のため江戸城に移り、替わって氏直は江戸衆の島津左近大夫・中条出羽守・伊丹三郎兵衛(康信の子か)に対して関宿城番を命じています。

天正18年(1590)徳川家康が関東に移封されると、関宿城は松平康元が入城し、以来度々の城主交替を経て、寛文9年(1669)板倉重常に替わって、金沢の能見堂を再興*58した久世大和守広之が5万石で入封しています。幕閣の重鎮が城主となり、老中に就任するなど「出世城」といわれました。

現在城域とは離れたところに、江戸城富士見櫓を模した天守閣風の建物が、千葉県立関宿城博物館として建てられています。

*56:正しくは、継。

*57:北条氏と古河公方・簗田氏の関係は、状況によって度々変化している。

*58:寛文2~9年頃、芝の増上寺地蔵院を、釜利谷村に隣接する谷津村に移築。明治2年焼失した。

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