釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その23 続 三河守政富と遠山氏>

 大永4年(1524)北条氏の江戸城攻略後、遠山直景(?-1533)は江戸城城代(二ノ丸)*54・江戸衆寄親(ヨリオヤ)を務めます。直景は北条氏の領国支配の全般にわたり、中心的な役割を担っています。直景の後宿老として嫡男綱景が父と同じく城代・寄親を務め、隼人佑・甲斐守・丹波守を名乗っています。天文3年(1534)小弓公方と抗争および政治交渉を行い、同20~23年には駿河今川氏・甲斐武田氏とも政治交渉を行っています。天文22年(1553)5月頃から古河公方・足利義氏は、御座所を下総の葛西城・関宿城・小金城、上総の佐貫城と度々移し、元亀元年(1570)6月頃下総の古河城に戻っています。この間綱景は古河公方との取次および支援する立場にありました。

 綱景の嫡子藤九郎は、太田資頼の娘を妻とし、父よりも早く1547年以前には死去したと考えられています。次男の隼人佑(ハヤトノジョウ 弥六郎)は、玉縄北条綱成(ツナシゲ)の娘を妻とし、永禄7年(1564)正月父とともに国府台合戦で戦死しています。隼人佑の表記で「隼人佐(スケ)・隼人佑(スケ)・隼人祐」など誤りを度々目にしますので、触れておきます。隼人佑は律令制官司の一つである隼人司(ハヤトシ)の官職で、正(カミ)-佑(ジョウ)-令史(サカン)-使部(シブ)-隼人(ハヤヒト)と定めてあり、三等官です。隼人(勇猛な大隅・薩摩国(鹿児島県)の人が宮城を守衛)を掌る役所です。衛門府からのちに兵部省の所属に変わっています。中世・近世においては本来の役目はなく通称です。隼人佑の弟に葛西城城代・弥九郎がいます。

 父兄の死後、相州大山寺八大坊(伊勢原市)の僧侶が還俗し、政景(?―1580)と名乗って跡を継ぎます。江戸衆筆頭として江戸・葛西の城代*55となっています。政景以降は代々早死し若年の当主が続いたため、かつてのような重要な役割は担えなくなり、小田原合戦前後の動向ははっきりしていません。政景の子も直景(?-1587)といいます。直景の子である犬千世(直勝?)と聟千世(景吉?)は北条氏滅亡後、尾張徳川家の家臣となっています。政景の弟に左馬允(サマノジョウ 景宗?)がおり、その孫娘が政富の孫直隆に嫁いでいます。遠山氏一族に浅草寺観音院別当・忠善(チュウゼン)と忠豪(チュウゴウ)がいます、その弟子忠尊(チュウソン)は政富の子ですが、これは後述します。綱景の娘に、河越城城代・大道寺政繁室(妻)、江戸城城将・太田康資室、島津主水正(モンドノカミ)室、小金城主・高城胤辰室そして伊丹政富室がいます。康資の娘が徳川家康の側室・英勝院(鎌倉・英勝寺の開基)です。

*54:本丸城代には、富永政辰が配置された。

*55:天正2年(1574)2月以降は、北条氏秀(綱成の次男)が江戸城城代となる。

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