釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その22 三河守政富と遠山氏>

 釜利谷の戦国武将の中心的な人物は政富(マサトミ)と言ってよいでしょう。永親の次男で兄康信の死後家督を継ぎ、小田原北条氏の滅亡を直接見た人物です。遠山直景の娘を政富の妻とする文献を度々見ます、時には政富の母とするものもあります。『浅草寺志』「遠山系図」に直景の女(ムスメ)「伊丹三河守政富室」とあり、同「伊丹系図」の政富の項に「源六郎 三河守 妻遠山丹波守直景女」とあります。これを引用しての記述でしょう。直景は天文2年(1533)死去とされていますから、天文7年(1538)生まれの政富より妻の方がかなり年上になってしまいます。直景の嫡子綱景の娘とする文献も多数あり、綱景が1500年代初めの頃の出生と推定すれば、こちらの方が正しいと思います。

 伊丹氏と遠山氏は、いろいろな面から関係が見られます。先に述べた通り江戸衆筆頭遠山氏の与力(配下)であり、婚姻関係や浅草寺別当との関わりもありますので、遠山氏についてしばらく述べます。

 遠山氏は伊丹氏と同じ加藤景廉(鎌倉幕府御家人)の末裔で、美濃(岐阜県)遠山の出身です。鎌倉後期から室町前期に畿内(京都周辺)に移り住み、室町幕府奉公衆*52となったと思います。康正元年(1455)3月関東公方・足利成氏が鎌倉から古河(埼玉県)に移ったのち、室町幕府8代将軍義政は、長禄元年(1457)12月庶兄政知(マサトモ)を鎌倉に下向させ、翌年8月伊豆国(静岡県)に到着しました。しかし関東は29年も続く享徳の乱*53にあって、鎌倉は不安な状況にあり伊豆に留まざるをえなく、のちに堀越(ホリゴエ 伊豆の国市 旧韮山町)に御所(政庁)を造り、堀越公方と呼ばれることになります。この時政知に従って下向したのが遠山氏です。他に松田氏・富永氏・布施氏・大草氏・蔭山氏がおり、ともに堀越公方奉公衆となっています。

 延徳3年(1491)4月政知死後、嗣子の潤童子派と長男の茶々丸派が家督をめぐって内訌が生じます。7月茶々丸が異母弟の潤童子(ジュンドウジ)とその母円満院を殺害して堀越公方となります。明応2年(1493)伊勢宗瑞が伊豆に乱入しますが、これは潤童子の兄(政知次男)天龍寺香厳院主・清晃(セイコウ のち11代将軍義澄)と駿河・遠江(静岡県)守護・今川氏親(宗瑞の甥)に討伐を命じられたものでした。同4年伊豆進出を果たし、同7年8月宗瑞は甲斐(山梨県)にて茶々丸を討ち滅ぼします。この前後に遠山氏・松田氏等は宗瑞に仕えることになり、重臣となります。かつては「北条早雲は下克上の代表」のように見られていましたが、そうではありません。

 明応4年伊豆半島にて強い地震があり、広範囲にわたり大津波による甚大な被害が出た状況の中での伊豆平定でした。宗瑞の善政伝承は、大地震の復興に尽力したことが由来といわれています。宗瑞は永正16年(1519)7月2日、三浦三崎にて船で遊興を楽しんでいたところ病気になり8月15日韮山城で死去しました。また氏綱の上総攻撃の後援のため三崎の陣中に滞在していたとも伝わっています。近年は88歳ではなく、享年64歳と推測されています。ゆえに「大器晩成」の人物評価も変わっています。

*52:室町幕府職制の一つ。将軍家に近侍した武士で番衆・番方ともいう。将軍の親衛隊。

*53:一説には24年に及ぶとされるが、享徳3年(1454)12月から文明15年(1583) まで29年におよぶ長期の戦乱。

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