釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史 <その19 右衛門大夫康信>
『北条家所領役帳』には、「釜利谷 伊丹右衛門大夫」とあり諱(イミナ 実名)が書かれていません。『金沢と六浦荘時代』(1914)では「右衛門大夫は即永親のことなるべく果して然りとせば」とあり、『金沢ところどころ』(1988)は永親と考えられるとあり、右衛門大夫を永親とする見方もありますが、『戦国人名辞典』(吉川弘文館2006)では、永親の子康信としています。さらに妻は諏訪部定次の妹、弟孫五郎(政富のことか)に20貫文を与えたと記しています。『浅草寺志』「伊丹系図」では、永親の嫡子「右衛門大夫 康信」とあり「龍夜刃丸 北条家属 小田原任 永禄年中武州峯上之城において上杉景勝戦而死」とあります。まず龍夜刃丸は龍夜叉丸の誤記かと思います。峯上城は武蔵ではなく上総国(千葉県)です。年代的には上杉景勝との合戦ではなく養父謙信の誤りです。永親は永禄元年(1558)死去とされています。『所領役帳』完成は翌2年ですから、右衛門大夫は康信が妥当でしょう。
康信は元々、玉縄(藤沢市)城主北条為昌(氏綱の三男)に仕えていました。天文11年(1542)5月23歳で為昌が死去しました。氏康に仕えたのち江戸衆に編入されました。江戸衆筆頭・遠山綱景の家来とする本をみますが、伊丹氏は北条氏から所領を直接与えられた直属の家来でした。自らの「家中」(家来の構成)を持っていた伊丹氏は、遠山氏の軍事指揮下に編成されており、これを与力または同心といいます。これは「寄親・寄子(ヨリオヤ・ヨリコ)」という関係でした。遠山氏や富永氏・太田氏など城将は「物主」(指揮官)の立場にあり、被官(北条氏の直臣でない)を持ち、遠山氏と伊丹氏は、江戸衆という軍団内の軍事・行政の上司と部下でした。康信の事績は戦死したこと以外はほとんどわかりません。その戦死も「伊丹系図」は峯上城(富津市)としていますが、国府台(コウノダイ 市川市)の方かと思います。
永禄年中とは1558~1570年です。国府台合戦は二回あり、第一次国府台合戦が天文7年(1538)10月、第二次国府台合戦が永禄7年(1564)正月です。この頃北条氏と里見氏が争い、弘治元年(1555)北条氏は金谷城(富津市)を攻略し、里見氏領国を圧迫しています。永禄3年(1560)9月里見義堯の久留里城(君津市)を包囲しましたが、里見氏の支援要請を受けた越後(新潟県)の長尾景虎(上杉謙信)が関東(上野国=群馬県)に進攻して、北条氏は撤退しました。
天文6年(1537)真里谷(マリヤツ 木更津市)武田氏で内乱が起こります。惣領の真里谷城主・武田信応(ノブマサ)と異母兄で峰(嶺・峯)上城の信隆との家督争いです。小弓御所・足利義明と安房(千葉県南部)の里見義堯は、信応に加勢して峰上城を攻略しました。信隆は小田原北条氏を頼り、北条氏家臣(諸足軽衆筆頭)の大藤金谷斎栄永(ダイトウキンコクサイエイエイ 信基)が峰上城の支援に出ますが、5月信隆は信応に敗れました。氏綱は鎌倉・東慶寺の渭継尼(イケイニ 義明妹)らを仲介役として義明と和睦させ、城を明け渡した信隆は金沢に移りました。天文11年6月頃~14年7月頃(1542-1545)伊丹氏と武田卜心(信隆?)は峰上城奪還を図り、以後伊丹氏が峰上城を在番(預かり)しています。