釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その20 国府台合戦>

 足利義明(高基の弟)は、関宿城(高基・晴氏の拠点)の攻略を図っていました。古河公方・足利晴氏は、北条氏綱に義明討伐を依頼しました。天文7年2月義明・里見義堯は太日川(フトイカワ 現・江戸川)東岸の国府台に陣を張り10月合戦となりましたが、7日北条氏綱・氏康は里見氏を破り、義明・義純父子・弟基頼は戦死し小弓公方は滅亡、義堯は安房へ敗走しました。これが第一次国府台合戦です。

 第二次国府台合戦は、25年ほど後のことです。この頃北条氏は上杉謙信を「長尾」と、上杉氏は北条氏康を「伊勢」と互いに旧名で呼び合っています。ともに関東管領を自認し、相手の正統性を否定していました。里見氏は下総(千葉県北部)まで侵攻していました。

 北条氏は足利義氏(晴氏の子、母は氏康妹芳春院)を、里見氏は足利藤氏(義氏の異母兄)をそれぞれ擁立していました。永禄6年(1563)上杉謙信が越後(新潟県)に退くと、武田信玄・氏康が関東に進出しました。閏12月再び謙信が関東(上野厩橋)に出兵し、里見義堯に出陣を要請しました。翌7年1月義堯軍は下総市川に布陣、義弘(義堯の子)・岩付の太田資正は市川の北方国府台に陣を張りました。江戸衆は北条軍の先陣を務め、正木大膳亮時茂等と戦い激戦の中、8日*46遠山綱景・隼人佑父子・富永康景・中条出羽守等江戸衆の主な城将や山角定吉(御馬廻衆)らが戦死しました。

 前年末江戸衆城将・太田康資が離反、里見氏に寝返りました。永禄5年の下総葛西城を攻略した際の戦功の恩賞に不満があったようです。綱景の娘(法性院)は氏康の養女として康資(母は氏綱の娘浄心院)に嫁いでいましたから、綱景は憤りが強かったと思います。一層勇んで戦った結果でした。永禄7年1月8日氏康勢と氏政勢の二手に分け、氏政勢の先陣を努めた江戸衆は、里見氏方が後退したと思い台地を攻め上りました。しかし里見氏方が待ち受けており攻撃され、綱景らは討ち死にしました。

 その後氏政の旗本勢や北条綱成・松田憲秀・笠原綱信等が2万の軍勢で国府台城の義弘・岩付太田資正・江戸太田康資らを攻めました。夕刻には北条氏が勝利し、義堯・義弘・正木時茂らは安房へ、資正・康資は上総へ敗走しました。上杉謙信は1月末武蔵進出を断念、旧体制の山内・扇谷上杉氏に代わって北条氏が、関東支配の主導権を握ることになりました。

 康信の死。「伊丹系図」の永禄年中が正しければ、第二次国府台合戦で討ち死にしたのでしょう。峯上城戦死が正しければ天文年間となります。しかし康信は前述した大藤氏の配下ではありません。また父永親の没年と弟政富の生年から類推して、天文の頃はまだ10歳前後か10代と思いますので、30歳を過ぎたであろう永禄7年1月8日国府台合戦の時が妥当と考えます。

釜利谷に何軒かある伊丹さんの家の一つが釜利谷東4丁目にあります。本家と聞いています。その家の小さな裏山の中腹に大きなヤグラがあり、その左側にりっぱな五輪塔1基と複数の小さな五輪塔の残欠が散在しています。私は康信の供養塔ではないかと思っています。

*46:かつては7日とする文献が多く、合戦は7・8日両日としていたが、最近の研究では8日とし、戦いも1日で終わったとしている。

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