釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その18 北条家所領役帳と家臣団>
『北条家所領役帳』は、北条氏領国全体すべての状況を示したものではありませんが、戦国大名研究で重要な史料です。石高制ではなく貫高制で記されており、総計560人の武士の名があり、825ケ村72168貫文余でした。
小田原北条氏が御家中衆(御一家衆)や家臣らに与えている所領に対する、軍役・普請役などの知行の負担状況を、軍勢編成の単位となる「衆」(軍団)とともに列挙してあります。家臣の基本台帳です。
当主の直轄である小田原衆・御馬廻衆(オウママワリシュウ)、地域ごとの支城に配置した玉縄衆・江戸衆・河越衆・松山衆・伊豆衆・津久井衆のほか、御家中衆・諸足軽衆・他国衆(三田氏・太田氏・大石氏・藤田氏・成田氏などの国衆)・職人衆・社領・寺領の14に分類されています。他国衆や職人衆などは軍役負担がありませんでした。御家中衆に含まれている小机衆・本光院殿衆(三浦衆)は、実質的には独立した軍団と考えてよいと思います。滝山城・八王子城・鉢形城・岩槻城の衆は『所領役帳』に伝来せず不明です。他に御家門方(古河公方足利義氏)・客分衆が存在していました。
貫高制とは田畠の面積を分錢として貫文で表したものです。永正初年(1500年代)宗瑞の時代から用いていたようです。家臣に対しては人数着到(軍役)の基礎としていました。北条氏は、検地で1段(反 360歩)につき田地500文・畠地165文とし、村々に統一した貫高を定め、これを基準に年貢高を算定し、ほかに夫役(普請役・陣夫役など)を農民に課していました。税制を改めて農民を直接支配しました。従来の「五公五民」から「四つ取り(四公六民)」*45とし農民の逃散を防ぎ農民の掌握に留意しました。直属の家臣の軍役は、およそ5貫で1人の兵を出し、寄子(ヨリコ)・同心はおよそ3貫で1人の兵を出す割合でした。武具・馬・旗の数の割合も決められていました。
『所領役帳』は、三浦郡を除いた相模川以東の鎌倉・高座二郡を東郡、以西の大住・愛甲・二郡を中郡、余綾(ユルギ)・足上・足下の三郡を西郡とし、愛甲郡の北西部を割いて津久井郡と表記しています。中郡と西郡が小田原北条氏の直轄領でした。
北条氏の家臣団について簡単に述べます。知行高が一番多いのが御家中の幻庵で5457貫文。松田憲秀(小田原衆筆頭)2798貫文、遠山綱景(江戸衆筆頭)2048貫文、大道寺周勝(河越衆筆頭)1212貫文、後者3人が上席の三家老です。次席家老として、笠原美作守家(伊豆衆)・笠原越前守家(小机衆)・清水家(伊豆衆)・石巻家(イシマキケ 御馬廻衆)・山角家(ヤマカドケ 御馬廻衆)等の名前が挙げられます。家老クラスは20家ほどあったようです。1000貫文以上の名を挙げると三郎殿(御家中 幻庵の子?)・北条綱成(玉縄衆)・太田康資(江戸衆)・内藤康行(津久井衆)・富永康景(江戸衆)・北条氏堯(御一家衆)・垪和氏続(ハガウジツグ 松山衆)。ちなみに天正18年(1590)3月山中城(沼津市)で討ち死にした間宮康俊は、杉田(磯子区)ほか計698貫文です。
*45:六民といっても、公事諸役を収取されていたので、農民の手元に残る生産物は60%ではなかった。