釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その15 菩提寺 禅林寺>

 永親が中興開基した竹嵓山禅林寺について述べます。寺伝では鎌倉公方足利持氏(アシカガモチウジ1398-1439)を開基とし、明応2年(1493)能山聚芸(ノウザンシュゲイ 1442-1512)が開山したとしています。持氏はすでに没しており時代が合いせんので、『禅林寺五百年史』は成氏(シゲウジ1438?-1497)が父持氏の菩提を弔うため建立したとしています。成氏は康正元年(1455)3月鎌倉から古河(埼玉県)に移り古河公方と呼ばれています。明応2年が正しいとした場合、久良岐郡は山内上杉氏の支配下にあり、成氏の勢力下でない地に建立できたか疑問です。持氏在世のころ持仏堂・祈祷所のような小さな堂宇があり、のちに聚芸が曹洞宗の寺とし、その後永親が復興し法名(戒名)に因み「禅林寺」と改名したと考えられないでしょうか。永親と禅林寺の関係を示す1次史料はありません。山門を通って左手を少し登ったヤグラ*41に墓碑があります。「伊丹参河守藤原永親之墓」と刻まれています。後述の伊丹兵庫頭直賢が江戸時代に建立したものです。

 禅林寺は下総関宿の六国山東昌寺の末寺でした。開山能山聚芸は、南足柄市にある道了尊で有名な曹洞宗・大雄山最乗寺*42了庵派の流れです。聚芸の師は東昌寺の開山即庵宗覚(ソクアンソウカク)、聚芸はその二世です。金沢区には曹洞宗の寺がもう一つあります。町屋の嗣法山伝心寺です。秦野市西田原にある香雲寺の末寺でした。開山は同じ最乗寺了庵派の養拙宗牧(ヨウセツソウボク)です。師の噩叟宗俊(ガクソウソウシュン)は、宗覚とは兄弟弟子(師は舂屋宗能 シュオクソウノウ)ですから、聚芸と宗牧は従兄弟弟子といった関係になります。戦国時代、岡村天満宮(磯子区岡村)近くの泉谷山龍珠院など了庵派の寺院がいくつも久良岐郡に開かれました。

 禅林寺の梵鐘(応永20年(1413)銘)は、房総半島の蔵波村(袖ヶ浦市)の八幡宮から、伊丹氏が移したものと伝わっています。しかし現存していません、戦時中の金属供出で失われたと思います。本堂に掲げられてある寺号額の裏面には、享保18年(1733)10月21日付で「参河守永親七世曽孫伊丹勘左衛門直中」*43と「同 七郎直昌」の名が記されています。もとは山門新造のときの扁額だったようです。

*41:鎌倉-室町時代に盛行した横穴式の納骨・供養施設。鎌倉・金沢・三浦半島・房総半島の東京湾沿岸地域に分布する。

*42:応永元年(1394)了庵彗明(リョウアンエミョウ)が開く。永平寺(福井県)・総持寺(鶴見区)につぐ格式をもつ。彗明の弟子妙覚道了が、大天狗になり山中に隠れたと伝えられている。

 *43:『金沢と六浦荘時代』は「眞中」とあり、『禅林寺五百年史』所収系図(『東京都社寺備考』所収系図を引用)では「直申」とある。伊丹氏の通字は直ですから直中とした。七郎直昌は直中の子です。

同書系図は、没年と法名が同じ直重を重複して掲載しており、兵庫頭を兵庫守と、旗本を御家人とするなど誤記がある。

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