釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その12 三河守某と自性院> 

 左京亮が鎌倉公方または伊勢宗瑞(早雲庵)の家来であったとする憶測のような記述をかつて見ましたので、念のため検討してみます。永享の乱で永享11年(1439)2月足利持氏は自害し鎌倉公方は不在となります。持氏の四男万寿王丸(のち成氏シゲウジ)が、5代鎌倉公方に就任するのは宝徳元年(1449)8月ころです。そして享徳3年(1454)12月関東管領・山内上杉憲忠を謀殺し鎌倉を去り、下総古河(埼玉県)に陣を敷き以後鎌倉に戻ることなく、古河公方を称することになります。左京亮が何年に関東へ下向し何時扇谷上杉氏の被官となったか不明ですが、鎌倉公方の被官ではなかったと考えます。被官ならば古河へ同行したと思います。

 次に宗瑞との関係ですが、諸説ありますが、黒田基樹さん*37の学説によりますと、宗瑞は1487年再度の駿河下向、1493年9月相模侵攻、1498年8月伊豆平定。この頃宗瑞と左京亮との接点はないでしょう。1510年5月武蔵侵攻。1512年相模国中郡・東郡の経略を成し、8月鎌倉郡12月久良岐郡を勢力下に置きます。永正9年(1512)までに扇谷上杉氏の被官(家来)であった菅野氏・古尾谷氏は金沢から退去しました。しかし伊丹氏は釜利谷の領地を安堵され、小田原北条氏に臣従したと考えます。手子神社創建から30年、玉隠英璵の伊丹屋敷滞在から20年経っています。小田原北条氏(伊勢宗瑞)の家臣となったのは、左京亮の次の世代以降かと思います。

 『禅林寺五百年史』にある「前伊丹三河守」に違和感を覚えます。「前(サキ」」は官職の前に付して「前三河守」とすべきで、名字の前は不自然です。平安時代ならば古文書に「前陸奥守」などの表記はありますが、室町時代には受領名は実態がなく格式・肩書きのようなものになっています。同時代に同じ受領名の武士が複数いましたので「前」は意味がありません。「前伊丹三河守」は息子に対して先代の意味でしょうか。

 さてこの三河守某と左京亮との関係がわかりません。後述する三河守永親は「伊丹氏系図」では、左京亮経貞の4代としています。三河守某は左京亮の孫でしょうか。

三河守某の法名は、竹岩正賢庵主と言い、永正10年(1513)9月29日伊丹氏の菩提寺・禅林寺にほど近い自性院を建立した人物と伝えられています。二人の子供(亀泉童子・竜珠童子)が戦乱に巻き込まれて亡くなり、その菩提を弔うために建てたと言われています。寺伝では「上州足利の陣」とあるようですが、『禅林寺五百年史』では、これはあり得ないとして「玉縄城攻防戦」の時ではないかと推測しています。戦場に幼児を伴わないでしょうから、親子での籠城でしょうか。

 玉縄城(鎌倉市)は、永正9年(1512)10月伊勢宗瑞の築城と言われていますが、山内上杉氏築城の玉縄要害を攻略した後、宗瑞が拡張再築城したものです。その前に明応3年(1493)9月扇谷上杉氏に玉縄要害(山内上杉氏)は攻められ落城しています。その後宗瑞が、永正9年岡崎城(平塚市 城主三浦道寸または義意)・玉縄要害(扇谷上杉朝興勢)を攻め落としたわけです。この時(1年食い違いますが)三河守某親子が籠城していて落城後宗瑞の配下(家来)となったのでしょう、推測にすぎません。前述しましたがこの年以降鎌倉・久良岐郡は小田原北条氏の支配下となります。

 永正13年7月三浦義同(道寸)・義意の新井城(三浦市)が落城、三浦氏滅亡。そして同16年(1519)8月15日伊豆韮山城にて伊勢宗瑞死去、64歳(推定)でした。大永4年(1524)1月小田原北条氏・2代氏綱は江戸城を攻略します。

*37:駿河台大学教授。『戦国北条氏五代』(2012)。             

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です