かなざわの人物 鏑木清方
カブラギキヨカタ 1878-1972 明治後期・大正・昭和期の日本画家。
東京神田佐久間町に生まれました。父は条野伝平(採菊 戯作者・ジャーナリスト)、本名は健一。鏑木家は母ふみの実家で代々神官でした。明治24年(1878)水野年方に入門し清方の号を与えられました。年方の師は幕末の浮世絵師・月岡芳年です。また梶田半古にも師事しました。新聞・雑誌などに挿し絵や、市井の風俗を描いて情感豊かな画風で多くの名作を残しました。泉鏡花とのコンビが有名です。
大正7年(1918)7月初めて金沢を訪れ風景画を制作、同9年3月金沢村*の谷津(現君ケ崎交差点近く)に別荘を求め、昭和14年(1939)まで主に夏季休養の地として過ごしました。母屋・四阿があり「游心庵」と称し、かつては金沢を一望できる見晴らしのよい高台でした。随筆の中で金沢の暮らしや自然などを書き残しています。「朝涼(アサスズ)」は、泥亀新田に花咲く蓮を背景に長女清子を描いたものです。
昭和29年鎌倉市雪ノ下に転居、同年文化勲章を受賞しました。近年行方不明であった「築地明石町(ツキジアカシチョウ)」(昭和2年制作)が再発見され、平成31年(2019)44年ぶりに公開され話題になりました。「新富町」「浜町河岸」(昭和5年作)とともに三部作の一つです。
*当時は久良岐郡金沢村。大正15年1月金沢町。昭和11年10月金沢町と六浦荘村が磯子区に編入された。昭和23年5月磯子区から分れて独立し金沢区となった。
(井上泰利)