かなざわの人物 源頼朝<その2>
ミナモトノヨリトモ 1147-1199平安後期・鎌倉初期の武将。鎌倉幕府の初代征夷大将軍。寿永2年(1183)10月従五位下に復帰。
頼朝の助命・・・・・最初の官職は保元3年(1158)2月皇后宮権少進で、この時の皇后は後白河天皇の姉統子(トウシ・ムネコ)内親王でした。翌年1月右近将監を兼ね、2月統子が上西門院を称したことから上西門院蔵人になりました。6月には二条天皇に仕える六位蔵人に転じ河内源氏嫡流では初めて任じられました。
平治元年(1159)12月従五位下右兵衛権佐となり貴族の仲間入りを果たしました。同月初陣で平治の乱に敗れ捕らえられ、永暦元年(1160)3月伊豆に配流となりました。
『平治物語』では、池禅尼が夭折したわが子家盛に生き写しであるとして、平清盛に助命を願ったと記されています。池禅尼は清盛の父忠盛の後妻であり、牧の方(北条時政の後妻)の伯母です。実際には頼朝の母の実家・熱田大宮司家の働きがありました。母は藤原季範の娘で、弟は三井寺の僧祐範、その姉妹千秋尼は上西門院女房(女官)で、これらの人々が後白河院や上西門院に助命嘆願を届けました。その要請を受けて池禅尼に院が圧力を加えたと考えられます。
尼は清盛に助命するよう動きました。当時武士の家では前当主の後家の力が大きく家長に準ずる発言力がありました。清盛は継母の嘆願を受け入れざるを得ず、死罪を免じて流罪に処したのです。
(井上泰利)