かなざわの人物 太田道灌
オオタドウカン 1432-1486 室町時代中期の武将。父は道真(ドウシン 資清スケキヨ)。
相模国の生まれ。鶴千代・源六郎と称しました。諱(イミナ 実名)は資長とされていましたが、現在は不詳とされています。従五位下左衛門大夫ほか。扇谷上杉定正に仕え家宰(執事)として活躍しました。長禄元年(1457)江戸城築城の一人です。
幼時鎌倉五山に入って学問に励み、軍事・和歌に優れていました。「山吹の里」の逸話でも世に知られています。鷹狩りに出た折り少女から山吹の一枝を捧げられた話しです。伝説の地は、面影橋(豊島区)・大聖院(新宿区)・埼玉県越生町など各地にあり、金沢にも伝えられています。六浦の上行寺の裏山、権現山・お伊勢山一帯が伝承地の一つです。文明17年(1485)には五山文学の代表者万里集九を江戸城に招いています。
文明9年(1477)長尾景春の乱が起こり、景春勢に対して武蔵平塚・丸子・鉢形城など攻め勝利しています。小机城(港北区)の戦いの時、道灌勢の一部は六浦にて合戦に及んでいます。同18年相模糟屋館(伊勢原市)にて、定正の命令によりその家来曽我兵庫によって、謀殺されました。
(井上泰利)