かなざわの人物 北条貞顕

ホウジョウサダアキ 1278-1333 鎌倉時代後期の武将。北条顕時の嫡子、母は遠藤為俊の娘。通称越後六郎。修理権大夫。15代執権。

金沢北条氏は、2代執権義時の六男実泰を祖とする庶流の一つで、北条得宗家を支えた一族でした。

正安3年(1301)兄顕実らを越えて家督を継ぎました。乾元元年(1302)7月六波羅探題南方(京都)に就任。この頃歴史書・法律書など様様な本を書写・収集しています。延慶3年(1310)北方として再度京に赴任しました。正和4年(1315)執権を補佐する連署に就きました。翌年14歳の高時が14代執権となり、貞顕は約10年補佐しました。

嘉暦元年(1326)3月16日出家した高時に代わりに、15代執権に任じられました。しかし、これは高時の弟泰家や安達氏の反感を買うことになり、泰家派の襲撃を恐れわずか10日で辞任、出家し法名を崇顕と号しました。

正慶2年(1333)5月22日鎌倉幕府は滅亡します。貞顕は高時ら一門と共に葛西ケ谷の東勝寺で自刃しました。墓所は称名寺金堂左手(西側)にあります。国宝に指定されている肖像画が現存します。

元亨3年(1323)頃称名寺伽藍が完成し盛期を迎え、茶園もありました。貞顕書状に度々「茶」のことが書かれています。「茶葉すらせられて(磨る)候て給いて候」「上品の新茶等多くご用意あるべく候」「新茶二三種拝領し候れば恐悦に候」など。

(井上泰利)

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