かなざわの人物 上総広常
カズサノスケ ヒロツネ ? -1183 千葉広常 上総介。平安時代末期の武将。 六浦から横浜横須賀道路方面へ、バス停「朝比奈」近くに五輪塔があります。昭和56年道路拡張工事中に失われ、3年後地元有志によって再建された […]
かなざわの人物 明治憲法起草の四人
明治期~昭和初期の官僚・政治家。明治20年(1887)大日本帝国憲法草案を起草するため4人が金沢に集まりました。伊藤博文(イトウヒロブミ 1841-1909)・井上毅(イノウエコワシ 1843-1895)・金子堅太郎 […]
かなざわの人物 川合玉堂
カワイギョクドウ 1873-1957 日本画家。本名は川合芳三郎 明治6年11月愛知県葉栗郡外割田村(一宮市木曽川町外割田)の長良川沿いで誕生。子供の頃から絵の才能が評判で、幼くして看板や岐阜提灯を描いていたという。川 […]
釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史 <その10 手子神社創建>
手子神社の創建について考えてみます。当初、釜利谷笹下道路バス停「宮が谷」(釜利谷東4丁目)に近い民家の裏山*27、竹林の平場にあったと伝えられています。江戸時代初期の延宝7年(1679)4月、伊丹氏出身の浅草寺智楽院別 […]
釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史 <その9 続 謎の浄願寺から龍華寺へ>
なぜ龍華寺の涅槃図が法雲寺に伝わったのか。それは永禄4年(1561)3月~閏3月、上杉謙信*26が北条氏の小田原城を攻めた際、上杉の軍勢が鎌倉近辺で多数の寺社に乱暴狼藉を働き、什宝を略奪して去りました。龍華寺もこの時奪 […]
釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史 <その8 謎の浄願寺から龍華寺へ>
洲崎に真言宗御室派の知足山龍華寺*22があります。源頼朝ゆかりの浄願寺と光徳寺の名跡を併合して、明応8年(1499)光徳寺最後の住持融辨が建立しました。『金沢龍源寺略縁起』*23によれば、浄願寺の場所は「六連の山中」に […]
釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史 <その7 左京亮釜利谷へ>
バス停小泉(コズミ)、宮川に架かる宮下橋・宮川橋の近くに、釜利谷の総鎮守手子神社(古くは手子明神)が鎮座。現在地に移転再建された江戸時代初期の棟札に「文明5年・伊丹左京亮」と記されています。これによって郷土史の本などは […]
釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史 <その6 伊丹左京亮関東下向>
『浅草寺志』*14の「伊丹氏系図」に、因幡守頼與の三男が左京亮経貞とあり、釜利谷に移り住んだとしています。頼與(頼与)は『寛政重修諸家譜』にある頼興が正しいと思います。次に経貞の諱(実名)に違和感を覚えます。前近代では […]
釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その5 江戸時代の大名伊丹氏>
親興の子因幡守永親は、その後羽柴秀頼・徳川秀忠に仕えたと言われています。一方伊丹城落城のとき5~6歳であった康直(元扶の子)は、伊勢・上野を流浪し、永禄元年(1558)駿河国(静岡県)に至り、権阿弥(ゴンアミ)・津阿弥 […]
釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その4 室町時代の摂津伊丹氏>
伊丹氏は摂津国伊丹(兵庫県伊丹市)の豪族でした。『寛政重修諸家譜』(1812年完成)によりますと、景佐(カゲスケ)*8の次男兵庫頭景親(ヒョウゴノカミ カゲチカ)が、摂津国河辺郡伊丹荘に住み伊丹と名乗ったことが始まりで […]