▶釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史 <その11 伊丹屋敷と夏島>
『新編武蔵風土記稿』(地誌 1828年成立)の坂本村の項に「堀之内 古伊丹氏 居住せし所と云」とあります。「堀之内」は小名(小字)で、現在の釜利谷小学校周辺と考えられ、この地に伊丹氏の館があったと思われます。遺構はありません。一方海に近い金沢郷(村)町屋にも屋敷があったようです。町屋は称名寺の南・寺前と洲崎の中間に位置し、人家多く鎌倉時代末ごろに町屋という地名が生まれた*32と思います。
町屋には、江戸時代初期の寛文2年(1662)まで天領(幕府直轄領)の代官八木氏の陣屋*33がありました。また継立場*34があり、保土ヶ谷道・鎌倉道・浦賀道などの起点終点でした。明治以降も村役場・町役場が置かれ、昭和46年(1971)以降泥亀バイパス寄りに少し移りましたが、区役所・公会堂・警察署・消防署などがあり、今も金沢の中心地です。
明応2年(1493)12月上旬、建長寺164世住持・玉隠英璵*35が「伊丹公私庁」を訪れています。そこで夏島の風景の美しさに感動して、武陵桃源郷や瀟湘八景を連想するとして漢文で『関東禅林詩分等抄録 夏嶋説幷銘』を著わしています。
『新編相模国風土記稿』(地誌 1841年成立)に「冬春ノ際 島上ニ積雪ヲ見ス 是海風ノ烈シキカ故ナリト云フ 因って夏島ノ名ヲ得タリ」。『三浦古尋録』にも「里民ノ云 雪中ニモ此嶋エ雪積ルト云コトナシ」とあります。これは玉隠の漢文を元にしています。『抄録』には、「伊丹公私庁 実奇絶之勝概也。地跨于武相之際 左于武陵之景八 右于湘江之景八(略)夏嶋孤、劫初以来往不積片雪 雖冬如無冬。故曰夏嶋諺也(略)」(冬でも雪が積もらないから夏島と呼ぶ)。
玉隠が町屋の伊丹屋敷で夏島を展望したという記述を時々見ますが、実際には野島に遮られて見えません。西岡芳文さん*36はもう少し南の瀬ケ崎からの景色かと述べています。あるいは屋敷を出て野島山から眺めたのかもしれません。
この時の伊丹屋敷の当主は、左京亮かあるいは次の世代かと思います。小田原北条氏は、扇谷上杉氏・三浦氏を追い払い相模東部・武蔵南部に侵攻します。永正9年(1512)8月に鎌倉郡、同年12月に久良岐郡は伊勢宗瑞(早雲庵)の支配下に入りました。永禄2年(1559)、宗瑞の四男・北条幻庵宗哲が金沢郷の領主となり、三河守屋敷(伊丹屋敷)は北条氏所有になったと考えられます。永禄10年(1567)北条氏繁が、鍛冶縫殿助(カジヌイドノスケ)に三河守屋敷を預けています。この頃伊丹氏は釜利谷郷(村)坂本の屋敷に移ったのか、あるいは新たに館を構えたのでしょう。
夏島は、縄文土器・夏島草案(明治憲法)・伊藤博文別荘の地として知られています。明治20年ころ、東西600m南北400m標高55mほどの急な傾斜をもつ島という記録があります。かつてあった烏帽子岩は削平され夏島も半分以上は崩され埋立地になりました。
*32:文保元年(1317)「称名寺釘日記」(金沢文庫古文書)に「町屋」とあり。
*33:代官頭長谷川長綱の配下の八木九兵衛正重が「金沢の代官」で、重朋・重絲と続いた。
*34:旅客や貨物の継送にあたる人足・馬が常駐した。
*35:ギョクインエイヨ(1432-1524)禅興寺(廃寺)8世住持。玉隠は10日ほど滞在し「有客指曰」(同宿の客から)夏島の由来を聞く。元禅僧・万里集九(バンリシュウク)と親交があった。
*36:元県立金沢文庫学芸課長、現上智大学教授。