かなざわの人物 明忍房 釼阿
ミョウニンボウ ケンア 1261-1338 鎌倉時代末期から南北朝時代の真言僧。
出自は不明ですが、北条氏縁故者かもしれません。弘安2年(1279)称名寺に入り、審海・了禅・源阿・源俊らに真言密教を学び、以後神道・梵字・図像・医学・暦法・説話文学など広く兼学しました。莫大な聖教を書写しまた収集し、蔵書を多く残した博覧強記の学僧でした。東密の相承・興隆に尽くし、顕教密教の声明を研鑽した能声家でもありました。禅・戒律にも造詣深く、関東一円の僧尼に付法(弟子への教義)を授けました。
延慶元年(1308) 48歳のとき称名寺第2代長老に就任しました。金沢貞顕の外護を得て、文亨3年(1323)浄土式苑池を中心に、王朝様式と禅宗様式を合わせ持った荘厳な伽藍を整備し、称名寺の全盛期を築きました。貞顕が六波羅探題として京都に赴任中は、情報を送るなど鎌倉での貞顕の手足としてその期待によく応えました。「葉茶は磨りましたのでお届けします」など称名寺に相伝された書状の多くは、貞顕・釼阿間の往復書簡です。卜部兼好とも交遊があり、鎌倉幕府滅亡後の危機を乗り越えた人物でした。
*声明(ショウミョウ):仏教の儀式・法要で僧が唱える声楽の総称。
*称名(ショウミョウ):仏の名号を唱えること。念仏・唱名。
(井上泰利)