釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史 <その8 謎の浄願寺から龍華寺へ>

 洲崎に真言宗御室派の知足山龍華寺*22があります。源頼朝ゆかりの浄願寺と光徳寺の名跡を併合して、明応8年(1499)光徳寺最後の住持融辨が建立しました。『金沢龍源寺略縁起』*23によれば、浄願寺の場所は「六連の山中」にあり、奇岩霊窟の「弘法山」と呼ばれた低い山であったとされています。金沢八景駅に近い上行寺および米倉丹後守陣屋跡の裏山あたりと推測されます。浄願寺旧跡は、昭和61年のマンション建設で多数の「やぐら」とともに破壊され、阿弥陀如来の磨崖仏の下半身・やぐら・小さな池など一部を復元した遺構が「上行寺東遺跡」として残るのみです。

 室町時代鎌倉公方の祈願所であった光徳寺の場所は、はっきりしませんが現在の町屋の天然寺周辺にあり、当時は海岸線近くと思われます。明応7年(1498)8月の地震による大津波*24によって全山流失・廃絶された可能性が高いと言われています。『略縁起』や『知足山龍華寺由来』によってわずかに知りえる事柄です。

 浄願寺・光徳寺のことはよくわからず、「謎の浄願寺」と呼ばれていました。しかし土浦市高岡の大雲山法雲寺*25に、一幅の涅槃図があることがわかり、この軸内納入文書に貴重なことが記されていました。

 『涅槃像縁由』に、「武州六浦荘蔵福寺 (略) 浄願坊円慶 (略) 文和三年甲午八月廿九日」 「嘉吉四年甲子 号浄願寺」 「六浦浄願寺 去戊戌為兵火焼失了 為其寺形金沢町屋造立之号龍華寺 (略) 」とありました。

  • 文和3年(1354)円慶によって涅槃図が造られた。
  • 嘉吉4年(1444)蔵福寺から浄願寺に改称された。
  • 戊戌の年とは文明10年(1478)です。兵火とは戦火で浄願寺の焼失を意味します。
  • その後町屋(現・洲崎)に龍華寺が建立された。

この史料によって、長尾景春の乱の一部が六浦にもおよんで、龍華寺以前のことがある程度知ることができました。

*22:リュウゲ 龍華樹の略。弥勒菩薩がその下で成道(仏の悟りの完成)するという樹。

*23:『神奈川県史 史料編8近世(5下)』265 元禄14年春。 

*24:鎌倉の大仏殿も流された。明応4年8月とも伝わる。2度目か。 *25:臨済宗建長寺派。  

           

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