釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史 <その7 左京亮釜利谷へ>

 バス停小泉(コズミ)、宮川に架かる宮下橋・宮川橋の近くに、釜利谷の総鎮守手子神社(古くは手子明神)が鎮座。現在地に移転再建された江戸時代初期の棟札に「文明5年・伊丹左京亮」と記されています。これによって郷土史の本などは、手子神社の創建を文明5年(1473)、伊丹氏が釜利谷に関わるのも、文明5年ないしはそれ以前としています。しかし私は文明10年以降と考えています。10年以前に関わりをもつような史料記録が見当たりません。

 では文明10年に何があったのか。それは長尾景春の乱の一端の合戦です。仮に「六浦・浄願寺の戦い」と呼んでおきます。乱の発端と横浜市域に関わることだけを述べます。文明5年6月、白井長尾景信が死去しました。関東管領・山内上杉顕定の家宰(被官筆頭=家老)です。嫡子の景春は当然自分が家宰職を継承できると思っていました。しかし主の顕定は景信の弟、すなわち景春の叔父忠景を任命しました*19。景春はこれを不満とし、太田道灌(オオタドウカン)*20の説得もありましたが、ついに同9年(1477)1月北武蔵の鉢形城(埼玉県寄居町)を出て、上杉氏の五十子の陣(イカツコノジン 本庄市)を攻め顕定に背きました。顕定・定正・太田道真らは上野国(群馬県)に退きました。

 武蔵国を越えて広い範囲で、3年半もの長い戦いとなりました。それは権益が集中する家宰職を手放すことを、景春の被官(家臣)や同輩らが強く反発し、顕定に不満をもつ武士が多かったのでしょう。顕定の同族扇谷上杉定正は、家宰道灌を景春討伐に派遣します。同年4月石神井城(練馬区)を道灌に攻め落とされた豊島泰経は、平塚城(北区)を経て同10年1月末、景春与党の矢野兵庫助・小机弾正が守る小机城(横浜市港北区)に逃れます。2月6日道灌は鶴見川を挟んで小机城の対岸に布陣しました。後世の創作かもしれませんが、道灌は和歌を詠んでいます。

 「小机は まず手習いの 始めなり いろはにほへと ちりぢりになる」

 この時、道灌の別動隊が六浦に侵攻し、景春方の武士*21を一掃します。これが「六浦・浄願寺の戦い」です。4月10日小机城は陥落し、平安時代末からの名族豊島氏は滅亡しました。以後久良岐郡の支配は、山内上杉氏・白井長尾氏から扇谷上杉氏に代わり、定正の被官古尾谷氏・菅野氏が金沢に進出します。同時に伊丹氏も土地を与えられ屋敷を構えたわけです。ここから釜利谷に伊丹左京亮が登場したと考えます。文明12年(1480)6月ころ景春の熊倉城(日野要害 秩父市)が陥落して、長尾景春の乱はおわります。

*19:実際には、寺尾入道・海野佐渡守の相談による。忠景は一門の長老格で問題はなかった。顕定は景信の強大な力が、そのまま景春に受け継がれるのを恐れたかもしれません。

*20:道灌の妻は、長尾景仲の娘で景春の叔母にあたる。太田道真は道灌の父。

*21:室町時代久良岐郡は、山内上杉氏の支配下にあり、実際は白井長尾氏の被官(家臣)が統治していた。                            

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です