釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史 <その10 手子神社創建> 

 手子神社の創建について考えてみます。当初、釜利谷笹下道路バス停「宮が谷」(釜利谷東4丁目)に近い民家の裏山*27、竹林の平場にあったと伝えられています。江戸時代初期の延宝7年(1679)4月、伊丹氏出身の浅草寺智楽院別当忠運によって現在地に再興されました。                                                               

 移転再建時の棟札や「金蔵院満蔵院社僧の訴訟書類」の実物を見ることはできませんので、『金沢と六浦荘時代』*28の記述を元に述べます。別当寺(金蔵院のち満蔵院)から寺社奉行宛ての訴訟書類に棟札の内容が引用されています。

 「乍恐書付以御訴訟書類申上候 武州釜利谷之郷惣鎮守手子大明神は 細川陸奥守殿執検伊丹左京亮殿文明五年九月二十九日に 瀬戸の明神を勧請有て建立被成 (略) 武州釜利谷之郷 金蔵院」 

 (棟札 表面)「元祖伊丹左京亮末孫伊丹三河守昌家*29孫子 奉再興皆手子大明神社一宇 奉行 惣氏子 社僧満蔵院権大僧都法印師栄 願主武州浅草寺智楽院忠運権僧正 (略) 于時延宝七己未四月十日 宮本 鈴木源左衛門 忠運権僧正謹白」 

 まず「細川陸奥守」について、『尊卑分脈』では管領家(京兆家)細川勝元の5代前公頼の弟頼貞の子孫が陸奥守を名乗っています。頼貞の子顕氏から7代にわたって陸奥守です。左京亮との関係はわかりません。摂津伊丹氏と関わりがあった管領の細川勝元や高国らの官途名は代々右京大夫、受領名が武蔵守でした。陸奥守は武蔵守の誤記だとしても、庶子の左京亮が執検(家宰)だったとは思えません。

 前述した通り左京亮は文明10年(1478)に金沢の地に入り、その年以降に手子神社を建てたと考えます。文明10年から神社再建の延宝7年まで、約200年経過しています。誤り伝えられた部分もあったと推測します。文明5年は15年だったかもしれません。

 手子神社の祭神は、大山祇命(オオヤマツミノミコト)です。六浦の瀬戸神社(瀬戸三島明神)の神を勧請したものです。瀬戸神社の社伝では治承4年(1180)4月8日源頼朝創建*30ですが、実際はもっと古く古墳時代ではないかと思います。海上交通の守護神として、潮の流れの速い瀬戸を鎮めるために祀ったのでしょう。その瀬戸神社は、伊豆の三島大社から勧請され、さらに古く原初の「三島の神」は、三宅島から賀茂郡白浜(静岡県下田市)・田方郡(三島市)へ遷座したと考えられています*31。

*27:現在地より北西500mの位置。

*28:平田恒吉著。大正3年発行。昭和59年復刻。             

*29:昌家は政富の誤り。

*30:頼朝が鎌倉に入ったのは、治承4年10月7日。『吾妻鏡』に瀬戸神社の記載はない。

*31:伊予大三島(大山祇神社)から遷座という説あり。百済から和多志の神(渡しの神)の渡来ともいう。                             

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