かなざわの人物 本如房 湛睿

ホンニョボウ タンエイ 1271-1346 鎌倉時代末期から南北朝時代の学僧。

 20代の頃は奈良・般若寺の真円に師事した他は、詳らかではありません。正安2年(1300)以降、鎌倉の浄光明寺・極楽寺・多宝寺そして称名寺で戒律・華厳・浄土・真言等の研鑽に努め、応長年代に釼阿から醍醐流を相伝しました。さらに和泉国久米多寺(岸和田市)の禅爾に華厳を、東大寺の凝然に戒律・華厳を学び、研究に励みました。精力的な講義と著作活動で、華厳教学の学問僧として名を成しました。

 文保2年(1318)称名寺に住し、以後釼阿から三宝院流等の伝法灌頂を受けました。嘉暦元年(1326)下総国土橋(千葉県多古町)の東禅寺住持を努め、東禅寺・称名寺間を頻繁に往来しました。鎌倉幕府が滅びた後、暦応2年(1339)称名寺第3代長老就任、足利尊氏の弟直義(タダヨシ)から住持職を安堵されました。建武2年(1335)9月長い交流があった有徳人(豪商)中江入道の四十九日の法要を行い、康永4年(1345)5月金沢貞顕の十三回忌には大掛かりな法要を営んでいます。「肥満仁」と形容された人物で、「湛睿和尚像」と伝わる椅子に坐った画像は、貫禄ある姿をしています。称名寺の教学を確立し、貞和2年(1346)76歳で入滅しました。              

*伝法灌頂(デンポウカンジョウ):密教で法を授けること。      

(井上泰利) 

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