釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その5 江戸時代の大名伊丹氏>

 親興の子因幡守永親は、その後羽柴秀頼・徳川秀忠に仕えたと言われています。一方伊丹城落城のとき5~6歳であった康直(元扶の子)は、伊勢・上野を流浪し、永禄元年(1558)駿河国(静岡県)に至り、権阿弥(ゴンアミ)・津阿弥(シンアミ)の名でわかるように同朋衆*11として今川義元に仕官。その子氏真のとき還俗して海賊奉行を努めました。その後武田信玄の船大将となり武田氏滅亡後は、徳川家康の旗本として駿河清水の船奉行を努めました。家紋は「加文字に上り藤」、別に「帆掛船」を用いていました。これらのことから伊丹氏は水軍の技術を有していた一族であったことがうかがえます。

 釜利谷伊丹氏の話の前にもう少し康直の子孫についてふれます。康直の子康勝は、甲府城番・勘定奉行・佐渡金山奉行となり、寛永10年(1633)甲斐徳美(山梨県塩山市)12000石の大名となりました*12。その子勝長は、寛文2年(1662)駿河の代官一色直正を吟味(取り調べ)中に直正に刺殺されました。勝長の孫勝守は、元禄11年(1698) 26歳のとき失心(精神障害・ノイローゼ)で自殺、領地は除封廃絶となりました。いくつかの庶流は旗本として存続します。相模国(神奈川県)に領地があった之信は、康勝の庶兄虎康の子で、鎌倉郡舞岡村(戸塚区)高座郡深谷村(綾瀬市)300石の旗本でした。その子勝信が、寛永19年(1642)蔵米出納の私曲(不正)により切腹となり、之信は連坐して所領没収となりました。9年後遠藤村(藤沢市) 300石を再び与えられました*13。

*11:ドウホウシュウ。室町将軍や大名の側近として取次・芸能・茶事・雑用を務めた僧体の者。

*12:のち12600石。勝長の時、弟勝重に2600石分与し10000石となる。

*13:慶安元年(1648)許され、同3年蔵米300俵を給された。翌年蔵米を改め300石を知行する。

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