釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その4 室町時代の摂津伊丹氏>
伊丹氏は摂津国伊丹(兵庫県伊丹市)の豪族でした。『寛政重修諸家譜』(1812年完成)によりますと、景佐(カゲスケ)*8の次男兵庫頭景親(ヒョウゴノカミ カゲチカ)が、摂津国河辺郡伊丹荘に住み伊丹と名乗ったことが始まりです*9。「伊丹」の由来は、①糸積イトウム(錦を織る)から転訛。応神天皇のころ漢(中国)から二人の女性が摂津国に来て錦を織ることを教えた。②昔は入海(イリウミ)で糸海が転訛。③板橋を越した丘の上に町ができて、板上(イタカミ)が転訛した、などがあります。
鎌倉時代から室町時代中頃までは、荘官級(荘園の中間管理者)ないしは地頭であったと思われます。戦国時代は国衆(クニシュウ 国人コクジン。在地領主)と呼ばれ、池田氏・茨木氏と並ぶ勢力を有していました。景親末裔の伊丹城主は、三河守雅永・因幡守頼興・大和守雅盛と続き、民部少輔雅頼・大和守元扶(モトスケ・雅興)は、管領細川氏の勝元・澄元・高国・晴元らに属し時には離れ、細川家の内紛に巻き込まれるなど戦乱の時代でした。
享禄2年(1529)11月、細川晴元の家臣柳本賢治に攻められ伊丹城は落城、元扶は討死。幼少の康直は国外に逃れました。永禄11年(156))織田信長が足利義昭を奉じて上洛(入京)のころ、池田筑後守勝政・和田伊豆守惟政・伊丹兵庫頭親興は、「摂津三守護」と称されていました。親興(忠親・正親)は、一時信長に従っていましたがその後背き、天正2年(1574)信長配下の荒木村重*10に攻められ、再び落城しました。ここに摂津伊丹氏は滅んでしまいました。同じころ池田氏・和田氏も没落しています。
はっきりしない点があります。親興の父兵庫頭国扶 (クニスケ・親永)を元扶 (雅興)の子とするもの、元扶の弟とするものがあります。年代的には、弟とする方がよいと思いますが、兄元扶討死後国扶・親興が伊丹城主になっています。これは国扶が兄を裏切り晴元側に付いたということでしょうか。
*8:景佐は、景廉の子・孫・曽孫と系図によって異なり、正しい系譜は不明です。
*9:『浅草寺志』所収の「伊丹氏系図」では、加藤重光から12代目の景親が伊丹を名乗り、その6代後頼與(与・頼興?)の三男が釜利谷に居住した左京亮(サキョウノスケ)経貞としている。また別説では、加藤景廉の末親元が伊丹を称したという。
(注)重光は斎藤叙用(ノブモチ)の子または孫で、加藤と名乗ったのは重光の孫正重または曽孫景道から。『尊卑分脈』では、加賀介景道が加藤を号すとある。景道(景通)の孫が景廉、あるいは玄孫とも。『尊卑分脈』=洞院公定によって編纂された諸氏家系図の集大成。14世紀末に成立、その後増補改訂が行われた。
*10:当初池田氏家臣。天正元年(1573)信長から摂津一国の支配を任され、翌年有岡(伊丹)城を居城とする。のち信長に背き天正7年有岡城落城、尼崎城を経て逃れて、のち羽柴秀吉に茶人(千利休の弟子)として仕えた。同14年死去した。