釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その2 釜利谷・六浦> 

 釜利谷の地名が最初に古文書に登場するのは、嘉元3年(1305)4月「瀬戸橋造営棟別銭注文案(略)一貫三百十文蒲(里)谷分」です。

 「釜」という漢字と鎌倉時代から鍛冶匠が居住していたという伝承から、鉄器の生産にちなんだ名が由来とされています。しかし室町時代の古文書には、蒲利谷・蒲里山・釜利屋・蒲谷などいろいろな表記で出てきます。特に「利」の意味が分かりません。元々「カマリヤ」という地名があり、「蒲・釜」は当て字として使われたのでしょう。ゆえにその由来語源は不詳です。

 『和名類聚抄』*6の国郡の部に「鮎浦 布久良」とあり、これが六浦であるという説があります。鮎は鮐の誤字で「鮐浦」、布久良(フクラ)はフグまたは袋を意味すると解釈され、転訛したとされています。中世には六面・六連と表記されたものもありました。異説もあり、「鮐浦」をタイラと読み「平子(タイラコ)」すなわち本牧辺りとし、「洲名」が六浦であるとする説もあります。結局「鮎浦」が六浦と断定はできません。

 久良郡の項には8ケ所の地名が掲載され、「郡家 (グウケ) 」は郷名ではなく郡衙(役所)でしょう。「星川」「諸岡」は現在の星川(保土ヶ谷))・師岡(港北区)に比定できます。他の5ケ所ははっきりしません。六浦は古来ムツラと発音し、ムツウラとなったのは明治以降だそうです。金沢*7も昔はカネサハで、江戸時代初期頃からカナサハ・カナザワと呼ばれるようになったとのことです。

*6:ワミョウルイジュウショウ(935年成立)源順(ミナモトノシタゴウ)編纂の百科辞書。掲載の郷名の過半数は、現在その痕跡を残していない。古代の郷は、平安時代中期ころに解体し荒廃してしまった。

*7:「金沢」の初見は、正嘉2年(1258)4月『伝法灌頂雑要抄』写本。「武蔵国倉城郡六連庄内金澤村」。                         

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