釜利谷の戦国武将・伊丹氏の歴史<その1 金沢八景>
「冬さればせとの浦はのみなと山 幾しほみちて残るもみじぞ」 晩秋の湊山、賑わう六浦(横浜市金沢区)の津(町)にて満ちる潮と鮮やかな紅葉が目に映ったと、室町時代中期の旅の僧道興准后*1の和歌です。道興は文明18~19年(1486-87)関東各地を巡り、18年10月鎌倉金沢を訪れました。六浦の上行寺裏の御伊勢山*2は、規模は小さいですが金沢では紅葉の名所です。
鎌倉時代末期、禅僧清拙正澄*3は六浦に来たりて、中国杭州西湖の景観ととても似ているとして漢詩を作っています。今も「金沢八景」の名が残っているように、古来金沢は景勝明媚な所でした。江戸時代初期から文人墨客が巡覧し、中ごろ以降は江戸庶民が、大山・江の島・鎌倉参拝の途次に金沢に立ち寄り、物見遊山の人々で賑わいました。それは落語「大山詣り」地誌『江戸名所図会』でもうかがい知ることができます。
東側のかつては内海*4と西側の国境の尾根(ほぼ横浜横須賀道路と並行)と通称される低い山の間に位置する所が釜利谷(カマリヤ)です。昔時、武蔵国六浦荘釜利屋郷あるいは武蔵国久良岐郡*5釜利谷村と呼ばれていました。この地にこれから述べます戦国武将・伊丹氏の本貫地(本拠地)がありました。
*1:ドウコウジュンゴウ(1430-1527) 三井寺聖護院。大僧正。関白近衛良嗣の三男。准后=太皇太后・皇太后・皇后に准じた待遇(のちに名目化)を与えられた人の敬称。
*2:御伊勢山・権現山(オイセヤマ・ゴンゲンヤマ)の樹叢は、2007年横浜市指定文化財(天然記念物)。
*3:セイセツショウチョウ(1274-1339)元の福州の人。嘉暦元年(1326)大友貞宗の招きで来日。翌年北条高時の請いをうけて建長寺22世住持となった。浄智寺・円覚寺・建仁寺・南禅寺などの住持を歴任。嘉暦4年漢詩を刻んだ詩板を瀬戸神社に奉納(近世以前に喪失)。
*4:瀬戸の入海・内川の入江ともいう。江戸時代中期までは、北は金沢文庫駅(京浜急行)・手子神社から南は金沢八景駅に近い瀬戸橋まで内海であった。
*5:古くは倉城・倉樹と表記して「クラキ」と発音していた。和同6年(713)元明天皇は国郡郷名を良字二文字に改めさせ、「久良」となった。室町時代中ごろから「久良岐」と書かれるようになった。