かなざわの人物 豊島明重
トシマアキシゲ 1579-1628 江戸時代初期の旗本。刑部少輔。信満(ノブミツ)ともいう。
16歳から家康・秀忠・家光の三代の徳川将軍に仕え、富岡郷他、計1,700石を領しました。大坂冬の陣・夏の陣にも従軍しました。1626年の家光上洛の時には、行列奉行を努めています。
明重の館は富岡の「宮の前」バス停留所周辺の谷戸一帯で、昔は西方・北方・東方が丘陵に囲まれ敵に攻められにくい地形で、南に開けていた温暖な土地でした。この一帯を「藪」と呼んでいました。
昭和の初めに軍用道路として丘陵の一部を開削し、国道16号が開通しました。明重は慶珊寺と宝珠院の開基となっており、1610年と1625年に富岡八幡宮の社の造営に尽力しています。
寛永5年(1628)8月10日、江戸城の西の丸殿中で明重は目付の身でありながら、老中井上主計頭正就(カズエノカミ マサナリ)を刺殺するという刃傷事件を起こしました。仲人の縁組を、正就が破談にしたためと言われています。明重はその場で背後から止めに入った青木小左衛門義精もろとも田楽刺しし、絶命しました。一説には翌日子息の継重(またはその弟吉継)と共に切腹したとも言われています。豊島家は断絶しました。
(柳下五介)