かなざわの人物 源範頼

ミナモトノノリヨリ 1152、53?-1193? 平安時代末期-鎌倉時代初期の武将。

 源義朝の六男で頼朝の異母弟、義経の異母兄です。遠江国蒲御厨(静岡県浜松市)で 生まれ育ったため、蒲冠者(カバノカジャ)と呼ばれました。頼朝の元に馳せ参じ大手大将軍として、木曽義仲や平氏を追討し滅ぼしました。頼朝の推挙で三河守となり、元暦2年(1185)10月鎌倉に戻り、頼朝を助け幕政を担いました。

 建久4年(1193)5月28日に起こった曽我兄弟仇討事件で、頼朝暗殺の報が伝えられると鎌倉留守居役であった範頼は、義姉政子を慰めた不用意な発言が、頼朝に謀反の疑いありと思われ、伊豆修禅寺に幽閉され、同年8月17日自害したと伝えられています。

 範頼の死については伊豆で最期をとげた説の他に諸説があり、当地金沢には身の危険を感じ、10数名の部下と共に寺を脱出して海路を修禅寺から逃れて、浦郷(追浜)に上陸し兄頼朝の疑いを解こうとしたが、追っ手に追われて瀬ケ崎の薬師寺に入り、自刃したと伝わっています。『大日本史』では同年8月24日、武蔵金沢の太寧寺にて自害とあります。薬師寺はのちに範頼の法名「太寧寺殿道悟大禅定門」から太寧寺に改称され、昭和18年、旧海軍の命令で瀬ケ崎から現在地片吹に伝範頼墓と共に移転しました。

(井上一夫)

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