かなざわの人物 仁木義長
ニキ(ニッキ)ヨシナガ ?-1376 南北朝時代の武将。官職は越後守・右京大夫等。
仁木義長は建武3年(1336)、筑前多々良浜の戦いなど大功をたて内乱の中で活躍し、伊賀・伊勢・三河などの守護を歴任しました。また侍所頭人(トウニン長官)を努めました。頼章・義長兄弟は、室町幕府政治に重要な地位を占めましたが、のち衰退しました。
鎌倉幕府が滅亡すると、六浦荘の支配(地頭職)は足利尊氏または弟直義のものになったと思われます。建武元年(1334)3月、上杉重能が差出人の「六浦荘政所下文」によって、富岡郷は義長に与えられたことがわかります。杉田郷も所領になったようです。仁木氏は足利義康の曽孫実国が三河(愛知県)仁木郷に住したことに始まります。
観応3年(1352)6月、仁木方(名前不詳)が鶴岡八幡宮の供僧教玄を殺害した罪で、杉田郷を没収されたと言われています。延文5年(1360)、義長は細川清氏・佐々木道誉らと対立して力が衰えると、富岡郷も没収され仁木氏の勢力は関東から消えてしまったようです。延文6年2月、富岡郷の半分は「台所料所」として鎌倉公方・足利基氏によって大草新三郎に預け置かれました。その後は六浦荘を含む久良岐郡の支配は、重能の養子能憲が継承して、山内上杉氏が相伝しました。
(井上泰利)